俳句  畳みたるセーターの肘ふくらみて

畳みたるセーターの肘ふくらみて

逢瀬にも似て墓詣で冬霞

道問はれ母の敬語や冬ぬくし

ばうばうとラガー等の湯気ノーサイド

雪しまき写楽貌往くニューヨーク


在日華僑が通うインターにわが子を入れたい母親の話に、
みなさんがご意見をお寄せくださった。
どのご意見も、いちいち納得のいくものばかりで、
なるほど、と頷きながら読ませていただいた。

親というものは、わが子にさまざまな夢を託すものだろうし、
その託した夢通りにいかないもどかしさによって、
諦めるということも知り、親もまたそこで一つ学ぶのかもしれない。
何事によらず、人生には諦めねばないぬことが多い。

考えてみれば、
鳶が鷹を産むということは、まずないのではなかろうか。
うちの親はたぶん子供にそんな多くを期待していなかったと思う。
殊にわたしは小児喘息がひどかったので、
丈夫に育ってくれればそれでいい、という親の思いが伝わって来た。
そんな子供時代を送った。

ただ、女の子ということで、
母と祖母は家事と芸事の躾けには熱心だった。
わたしの子供時代は昭和30~40年代ということになるが、
学校では男女平等ということが、
殊のほか強調されはじめた時代であったにも関わらず、
わが家ではそんな風潮とは一切関係なく、
生活人としての自立みたいなものに家庭教育の主眼が置かれていた。

小学校に入学した年に弟が生まれたので、
子守はわたしの大事な仕事で、オムツを替えたり、
そのオムツを洗ったりしたこともある。
離乳食の経過もつぶさに観察して、かつ手伝っていたので、
わたし自身、子育ての経験がなくても、
どういう献立にするか、とか、けっこう詳しい。
弟が成長すると、プリンやホットケーキみたいな
おやつをよく作ってあげたものだ。
その弟にひらがなを教えたり、九九を教えたり、
ま、家庭教師という役目も果たしていた。
こうして弟は育ったので、現在も兄弟仲は極めて良好だ。

朝の仕事というのがあった。
わたしの担当は玄関の掃除と、祖父と父の靴磨きであった。
これが終わると、朝ごはんであった。

昭和30年代は、わが家のような町家にもお手伝いさんがいた。
ちょうど電化製品が普及し始めた時代ではあったが、
家事はまだまだ手動にたよる部分が大きかったし、
高度成長への夜明け前でもあったので、
昭和40年代になるとナショナルや東芝の工場にお勤めする少女たちが、
この時代は、学校を終えるとお手伝いさんとして働くことが多かった。
家事を手伝う傍ら、洋裁学校へ通ったり、生け花なんかも習って、
嫁ぎ先には、祖父母が奔走し、箪笥や着物を持たせて嫁がせる。
わたしは幼稚園のとき、お手伝いさんが嫁がれるというので、
哀しくて、おいおい泣いた記憶がある。

お手伝いさんがいるから子供は家事から放免されそうなものだが、
わが家ではそんなことはなかった。
たとえば、お彼岸の頃になれば、女はみんな台所に入って、
おはぎ(ぼた餅)をせっせと作る。
祖母が、半殺しにね、なんて言うのだ。
半殺しなんて物騒な言葉だが、
もち米を全部つぶさないから、半殺しなのである。
こんな言葉を知っているのも、わたしが最後の世代かもしれない。

洗濯は小学校5年になってから、
自分のものは自分で洗う、ということになった。
溜めると面倒なので、お風呂に入るとき下着やソックスは洗ってしまう。
こうすると、後のものは日曜日に簡単に出来る。

こうしたわが家の教育に感謝するのは、
大人になってからであったが、
今、それを、どれだけ有難いと思うか。

ところが、わたしの世代でも、
勉強だけしていればいいという母親もいた。
Kちゃんのおかあさんは元祖教育ママで、
KちゃんのおねえさんのMさんは優等生だった。
小学校も越境させて、通わせるという徹底ぶりで、
Mさんは越境した小学校でもトップだったという。
そして、中学から水道橋の桜蔭に進んだ。

桜蔭という学校は東京の小学校の一番が集まる学校なので、
さすがのMさんも、最初のテストが中位以下だったという。
Mさんにはそれがショックだった。
家に帰ると荒れたそうである。
そのとばっちりが妹のKちゃんにダイレクトに来る。
だから、Kちゃんは絶対に桜蔭なんか行かないと決め、
区立中学から都立高校へと進んだ。
それでも名門、青山高校だから立派なもんだ。

このMさんは、なかなか立ち上がれず、
大学も埼玉大学という、ま、国立二期だから、
桜蔭にしては・・・というニュアンスは同世代なら判ってくれると思う。
そして、母親の目がおねえちゃんにばかり行っていた次女のKちゃんは、
その分、野育ちというか、真っ黒になって遊んでばかりいた。
これが東大に合格するのだから、人生はわからない。

この姉妹の母親は府立第一高女から女子医大に学んだそうだ。
ところが大正12年生まれなので、女子医大は戦争末期に閉鎖される。
あいにく、ご実家が空襲で焼かれたり、ご尊父が亡くなられたりで、
戦後、復学はかなわなかったそうである。
それで、代用教員となられるのだが、結婚相手がいない。
当時、トラック一台の娘(何故トラックなのか不思議)に男一人、
なんて比喩された世代の女性だった。
Kちゃんのおとうさんは明治生まれで、
おかあさんより20歳以上、年上だったという。

このおとうさんとKちゃんのおかあさんは仲が悪かったそうだ。
ほとんど家庭内離婚状態で、
おとうさんは、どこにいっているのか家で食事することはなかったという。
本来なら、夫に向かうべきエネルギーを、
Kちゃんのおかあさんは長女のMさんに注いでいたのだと、
後に、Kちゃんは分析していた。
また、戦争で果たしえなかった学業への思いを、
Mさんに託していたのだろうとも。

Mさんは後にエリートと結婚し、おかあさんは満足したというが、
Kちゃんに言わせると、おねえちゃんは家事能力がない、と辛辣だ。
Mさんの夫がベルギーに赴任し、おねえさんもご一緒されたことがあった。
それで、Kちゃんが会いに行くことになったら、
おねえさんから持って来て欲しいもののリストが送られて来たのだが、
そこに、麺つゆをたくさん、とあって、それをKちゃんが怒るのだ。
麺つゆなんて、だしと醤油とみりんがあれば作れるじゃないか、と。

そして、Kちゃんの怒りはMさんの子育てにも及ぶ。
自分が母親にされて苦しんだことから、姉は何も学んでいない。
自分の息子に同じことをして、とうとう息子をダメにしてしまった、と。

わたしはMさんをよく存じ上げているが、
わたしが先だって会った母親たちと、どこか似ているところがある。
そして、それはMさんとKちゃんのおかあさんにも共通している。
たぶん、わが子にエリートコースを歩ませたいというオーラが強い。
どうも、それが人生の最終目標なのだ。
そして、みんな、自分の夫にはあまり関心がない。

こういう母親を持った子供は、はたして幸せなのだろうか。
母親のエゴを押し付けられて、つらくはないだろうか。
勉強なんて、本人がその気になれば、どんどん進むし、
その気にならなければ、周りでいくらワイワイ騒いでもどうしようもない。
それは、Kちゃんを見ていればよく判る。

彼女は高校時代、フランスにかぶれて、
いつかソルボンヌに学びたい、と思ったんだそうだ。
そのためには先ず、東大の仏文に進んで、
次に、ソルボンヌというコースを考えたのだという。
それから、彼女の猛勉強が始まった。
彼女の希望が叶えられたのは30代に入ってからだが、
教職に就きながら、結婚もして、子供も二人産んだ。
息子が二人いるが、これが面白い子供たちだ。
旦那はもっと面白い。
三年に一度くらい、家族でハワイに遊びに来るが、
わたしは、この家族が来るのが待ち遠しくて、
お出でよメールを、いつも送ってしまう。

で、夫婦だけは新婚気分でホテルに泊まってもらい、
息子二人はうちに泊める。
うちにはベッドが一つだけしかないが、
これが寝心地のいいダブルベッドで、ここに誰が寝るか、
ベッド争奪花札決戦! 
を三人でやる。
優勝者はダブルベッド、2位がソファ、3位は床にせんべい布団。
これが、盛り上がるのだ。
いつも、わたしが、せんべい布団に寝るはめになるのだが。

子供は親のミニチュアではないと思う。
プラモデルではない。
人類共有の遺産を受け継いで往く旅人のようなものではなかろうか。
たまたま、各々のもとに授けられたにすぎない。
親は、その子がひとり立ちするまでの養育を負う存在で、
そこから楽しみを貰い、苦労から己れも人生を学んでいく。
わが子とは、そういう存在のような気がする。

この続きはまた。
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by leilan | 2005-01-08 21:58
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