俳句  アラワイ運河冬の茜を流れけり
マスクして巾着切りの眼でありし

アラワイ運河冬の茜を流れけり

児ら競ひ踏みしだき往く朝の霜


もし、三十年早く生まれていたら、
鎌倉アカデミアで、歌人・吉野秀雄に学びたかった。

短歌の歴史は千年を超える。
吉野秀雄は、その長い歌史上に残る相聞歌人だ。

というよりも、
山口瞳の「小説・吉野秀雄先生」の、
いっとう美しい師弟のありようの方が有名かもしれない。

吉野秀雄は富岡の大きな呉服問屋に生まれる。
富岡製糸工場があったあの富岡である。
大正十一年、実業家として家を継ぐべく慶応の経済に進むも、
肺結核のために中途退学。
鎌倉に転地療養し、
文学書、歌書に親しみ、歌作を始める。

十五年、栗林はつと結婚。
しかし、昭和二年、四年、六年と隔年置きに肺患をぶり返し、
危篤に陥っている。
病身であれば仕事もままならない。
妻子を置いて、自分は逝くかと、秀雄は考えていた。

ところが、看病に疲れたのであろう。
はつが急に不調を訴える。
検査の結果、胃壁に悪性の肉腫ができる難病と判明。
戦時下であれば特効薬どころか、食料さえ満足ではない。
十九年夏、はつ死去。

四十二歳の病身の男と四人の子供が残された。
同年末、兄の世話でお手伝いが来る。
八木とみ子、四十歳。
キリスト教詩人・八木重吉の妻であり、
夫が三十歳で昇天した後、
二人の遺児を育ててきたが、
その二人とも病気で亡くしている。

山口瞳は、こうしたためている。

  容貌魁偉である。誰が見ても、一見して、
  尋常な男ではないと思っただろう。
  タダの人ではない。

わたしは、この吉野秀雄のお顔が好きだ。
なんというか、たまらなく好きだ。

いま、わたしの手元にある一葉の写真は、
おそらく晩年のものだろう。
白髪のどちらかといえば面長な顔立ち、
眼鏡の奥に光る眼は慈愛に満ちているが、
やはりタダモノのそれではない。

晩年、寝たきりになられた吉野秀雄は、
村田英雄がテレビで「人生劇場」を歌うのを見て、
「やると思えばどこまでやるさ」
というところで、上半身を起して、
テレビに向かって、
「馬鹿野郎」と怒鳴ったという。

どこまでやるさ、なんて言葉はない。

「どこまでも」ならある、
しかし、「どこまでやるさ」なんて言葉はない、と。

そうした、男性的で純粋な男の眼だ。

  我命をおしかたむけて二月朔日朝明の富士に相対ふかも <吉野秀雄>

  わぎのちを おしかたむけて にがつついたち 
  あさけのふじに あいむかうかも

この歌を山口瞳は、
あの先生が山に向かって対決しているような感じっていうのは判るが、
何を大袈裟なという感じになってしまうのではないか。
自分の命を「おしかたむけて」というのは重すぎる、と語っている。

しかし、病弱な者には、
この吉野秀雄の悲壮感にも似た武者震いがよく理解できる。

死と隣合せに生きた者にしかわからないかもしれないが、
朝、目覚めたとき、ああ今日も生きていた、と思うのだ。

山口瞳は、先生の厳しくも優しい人柄に惹かれ、
先生の指導する短歌会に参加し、
鎌倉のお宅に頻繁に出入りし歌作に励む。
しかし、悲しいかな。
自分には歌の才能がないのを痛くも思い知らされるばかり。
その弟子に、師はこういう声をかけている。

  「山口君! 恋をしなさい」
  と、先生が言った。
  「恋愛をしなさい。恋愛をしなければ駄目ですよ。山口君。
   いいですか。恋をしなさい。交合(まぐあい)をしなさい」
  先生は、力をこめて、声をはげまして言った。

なんと含蓄のある言葉か。
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by leilan | 2005-01-20 18:34
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