俳句  そよ風に志ん生と寝る春の昼

あをあをと水にうつくしはうれん草

そよ風に志ん生と寝る春の昼

犬にもの言ふてのどけしティータイム



エンターテイメントとポストモダンについて考えるとき、
マクルハーンの<アンダスタンディング・メディア>が思い出される。

1964年にこの著作が世に出て、
いわゆる<マルクハーン旋風>というものが起こる。

メディアというと普通考えるのは新聞・テレビ・ラジオであるが、
マクルハーンはそれだけでなく、
コミュニケーションのあらゆる形態に言及する。
鉄道・車・郵便・電話、あらゆる送り手と受け手の関係について検討する。

メディアというのは媒体であるが、
何かメッセージを送っているわけで、
それを熱いメッセージを送るものと冷たいメッセージを送るものに分けた。

わたしは、みすず書房から翻訳で出たものを15年くらい前に読んだが、
ビックリしたのは、ラジオが熱い媒体に分類されていたということだった。
そして、映画も劇も芝居も熱いが、文字は冷たいメディアに分類されていた。

つまり、活字で読むのをわれわれの理解に強制するわけで、
たとえば本を読んでいて疑問が出て、問いかけても答えてくれない。
だから何度も読み返して、自分で了解するよりしかたがない。

ブログにも、コメント不可、トラックバック不可というところがあるが、
これは冷たいメディアに属するということだろう。
ブログというツールはコメントやトラックバック機能が、
いわゆる共同討議的側面を有し、
熱いメディアとして機能していると思うのだ。
つまり、観客とのコミュニケーション、それが可能なところが面白い。

意外なのは、テレビを冷たいメディアと言っていることだ。
これはちょっとわれわれの常識に反するような気もするのだが、
マクルハーンの意見によると、
テレビというもので実情を写すために、かえって熱狂が起こらない。

ケネディ暗殺の場面、それからすぐ後の犯人オズワイルドの撃たれた場面が、
ちょうどテレビ実況放送として画面に出た。
このとき、わたしは小学校1年だったけれども大変なショックを受けた。

しかし、マクルハーンは、もしこれがテレビじゃなくて、
ラジオで、言葉だけで伝えられたら、
全米で暴動みたいな騒ぎが起こっただろうと言う。
実際に状況を見ているから、
それで何も起こらなかったと、こう分析しているのだ。

確かに、これはうなずけることであって、
1938年にアメリカのCBSラジオで、
オーソンウエルズのSF<火星人襲来>の放送を、
本当の出来事と勘違いしてパニックが起こったことがあった。

いまわれわれはテレビ文化にどっぷりつかっていて、
ちょっと暇なときにはテレビを見ていないと、
気が落ち着かないという人も多い。
しかし、画面に調子を合わせてはしゃぐということはないだろう。
(わたし自身は意識的にこの30年テレビを遠ざけてきた)

そしてテレビ画面の空間は、肉眼の遠近法とまるで違っている。
写真のレンズは少し遠くなっているが、
テレビは逆にせまくて、三歩あるいて十歩くらいの距離になってしまう。
人間が向かい合う場面は膝をつき合わせている。

考えを変えてみると、あれは平面である。
絵と同じで奥行きが欠けている。
クローズアップになると、後ろはすっかりボケてしまう。
われわれが普段見ている空間とはぜんぜん違うわけである。

そこに写っているのは、物語になるわけだ。
実況放送でも、いわゆる実写ではない。
あれをわれわれが実写だと思っているのが間違いなのだろう。

映画は20世紀のはじめ、
19世紀的活字文化が出来上がっているところに切り込んでいって、
それを見事にひっくり返した。
しかし、映画は文化であったためしはない。
シネマ劇場へいって、くらやみの中で特別な鑑賞を行う。
ゆえに映画というものは熱い媒体だ。

その反対に、フランスのゴダールではないけれど、
いまや全世界にテレビ文化というものが成立している。

そして面白いのは、
山田詠美のような少女漫画の作家が、
すでに書いた少女漫画の題材を小説に仕立て、
直木賞を受賞しているという現実である。

日本の少女漫画というものがいかにファンタスティックで、
漫画や劇画のなかでも、その変わり具合は非常に特殊だ。

山田詠美の小説は、文章が簡潔で場面の変わり方のテンポが早い。
それが、少女漫画が根底にあって、
漫画だからセリフは短いし、アクションが主である。
それを文章でつないだら、ウケたというところがまた面白いと思う。

わたしの世代の女の、まあほんの一部の人たちだったけれど、
80年代前半には、職場における差別と闘ったものだった。
しかし、そこに俵万智が甘い同棲と別れを<サラダ記念日>に歌い、
200万部以上売れるという現実が巻き起こる。

これを誰が予想しただろうか。
これが日本の大衆現象というものだと、つくづく思い知らされた。

戦後、日本は慢性的な不況を乗り切るために保守化の一途をたどる。
そのせいもあってか、日本のポストモダンには抵抗の姿勢がない。

テレビ番組がつまらなくても、
日本人はブラウン管の前に座る習慣がついた。
実況の実写ではない情報にすぎないイメージに、
われわれの生活は犯されている。
実生活がテレビのホームドラマを模倣して生きられるのだから、
すでにエンターテイメントの枠を超えているわけだ。

現代文明はレジャー、グルメ、情報産業の作り出すブラウン管上の外界、
緑の自然の影に浸透されていて、
元来冷たいミッテルであるテレビによって適度に熱せられている。

大勢に従って動くのはそれが快いからなのであろう。
行方に暗雲は出ているが、ゆたかな社会が続いているので、
みんな遊んでいる。

つまるところ、
過剰消費社会において何がでてくるのか、わたしにはわからない。
わからないでは無責任かもしれないが、
これもポストモダンの言説として容認されるかもしれない。
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by leilan | 2005-02-14 12:38
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