『書棚』  敗戦野菊をわたる風 / 吉田直哉

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敗戦野菊をわたる風

吉田 直哉 著

筑摩書房

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「良い問いは答えより重要だ」

常識的な答えだけを知っている人間になるより、根源的に問う人になれという意味で、吉田直哉は南カルフォルニア大学の数学者リチャード・ベルマンのこの言葉を座右の銘にしていると言う。

吉田直哉と言えば、これはもうNHKの名デレクターであり、数々のドキュメンタリーやドラマを手がけた伝説の人である。その吉田さんの幼少時代から大学卒業までの思い出を綴った53編が「敗戦野菊をわたる風」だ。

昭和6年の生まれであるから、日中戦争から太平洋戦争の頃が時代背景としてあるが、身辺のことを中心に忘れがたい風景、出合った人々の面影を描いて感動を呼ぶ。

祖父、父とも学者であるが、山椒魚の研究をしてそれを家に飼っている超俗的な祖父 が、体長1m半の大山椒魚を逃がし、 新聞に大きく書かれた時、「毎月8月になると大山椒魚は卵を生むために集まるのだ。おそらく古巣の岡山まで出かけようとしたのだ。このような動物は一匹 に見えるが実は一匹がおおぜいなんだ。山の上の立った一本の木も、実はお おぜいなんだ。この「ひとりでおおぜい」のテーマを後に卒業論文にベルグソンの体制と個の問題として書くことになる。

「好奇心を持ち続けろ」が父富三の口ぐせだった。父富三は、文化勲章受章・東大名誉教授・癌研究所長で、日本の癌研究の第一人者で草分けの一人である。父と吉田少年はよく長崎の坂道を散歩した。こんな記憶がある。

「癌細胞を注意していると、かならず多数派と少数派にわかれる。例えば100個の細胞に対して20個の少数派。社会も同じだ。多数派が正常ということになりやすいが、しかし少数派だと思って無視していると、時に突然、多数派に移行するんだ。細胞の数の逆転、遷移と同じように」

吉田さんは父のこの話を面白く聴いた。思考のプロセスをかいつまんで話す父の言葉の余白は自分で補いながら全体の意味を感じとった。だからのちに敗戦で価値の逆転がおこったとき「なるほど、これが多数派への移行か」と思うことができた。

敗戦間もなく進駐軍の50台もの行列をただ一人路上で見ていたことを家に帰って言ったら、父は「こういう不良性のあるやつには、これからの時代は面白いかもしれない。」と言ったという。

旧制二高、東大での駒場寮(旧制一高の寮)の生活は懐かしい思い出として描かれている。いわゆる、気ままでバンカラな生活の中で、珈琲店「ゆきやなぎ 」での(店をやっている)バイオリンを弾く謎の美女との出会いが、感傷的であるが清冽な文章で書かれている。ある日突然その店が壊され、その美女も消え、その跡地に「敗戦野菊が生えていた」という風景をこの本の表題にしていることからも、青春時代の忘れ得ぬ思い出なのだろう。

最後の編で、東大新聞の編集に携わっていたとき、劇作家加藤道夫と知り合い、この人の弟子になる決意したという。後にNHKで優れた作品を世に出すきっかけはここにあったのかもしれない。NHKを志望していることを報告にいくと加藤は「社会の大勢の人に会える仕事をしなさい。」と言ったという。帰りに玄関を出てふりかえると、童話のように白い洋館の前庭に、敗戦野菊が茂っていたという風景は、ドラマを手がけた吉田さんだけあって、主題の「敗戦野菊」を再度登場させ、この本は終わる。

あとがきで「私事にすぎない、と思えるが、私事にすぎない思い出の集積が、じつは歴史になるのではないか。だからなるべく大ぜいが、私なども含めて大ぜいが、書きとめるべきではないかと考えた。」と言っている。読後、私のなかをダニーボーイの旋律が流れていた。

       
♪Danny Boy ( Londonderry Air )

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by leilan | 2005-05-02 00:00 | 書棚
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