毎日新聞のコラムをまとめ読みしていたら17日の
「余禄」が、
国税庁が公表した2004年の高額納税者100人でトップとなったのは、
46歳の投資顧問会社の運用部長だったことにふれていた。
運用するファンドが高い利回りを実現したことによる成功報酬で、納税額約37億円、推定所得約100億円。
1位にサラリーマンがなったのは史上初なのだそうだ。
そこで余禄子は、高度経済成長このかた、サラリーマンは平凡の代名詞だったと、山口瞳の小説「江分利満氏の優雅な生活」を引き合いに出している。
この本が昭和37年度(1962年)の直木賞受賞作品だから、
「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」
に象徴される平凡な生活状態を優雅と考え、
それに満足してきたと言ってるわけだが・・。
しかし、これだって、
知らず知らず、人から押しつけられた幸せの絵図だ。
推定所得100億円のサラリーマン出現を、
余禄子のようにはもはや驚いていても仕方ない。
かつての資本主義が市場経済と呼ばれるようになって、
モノを作る人間よりも博打を打つ人間の方が、
要は、手っ取り早く金を稼げる時代になったということだ。
だからと言って、誰でも博打で勝てるわけではなし、
所詮、一か八かの世界なのだ。
ウォールストリートに行けば、こうした博打打ちはごまんといるが、
破れ綻びて、ビルから身を投げたりするのもいるのだ。
幸福格差を数量ではかるというスタンスは、高度経済成長の時に日本の産業界が作り出した虚構だと思う。しかし、未だにその呪縛から逃れられない人は多い。というか、それをメディアが煽っている。
ルイ・ヴィトンを10個持つことがスティータスなおバカ(と私は思う)でも、他人と比較ばかりしていれば、結局いつになっても満たされることはない。
それにひきかえ他人は関係なく、自分が愛着を持っているモノが一つでもある人は無駄な買い物をあまりしない。
いろいろな人の家を訪れると、不思議なことに、あまり裕福でない家の方がモノが多い。
電化製品は最新のモノがそろっているし、
テレビも液晶で大型だったりする。
それに比べて、明らかに裕福な人が、
そんなに大きくないブラウン管のテレビで、
ビデオカメラも持っていなかったりする。
日本の消費はお金持ちによって成り立っているのではなく、
圧倒的多数を占める中間層の、
猛烈な買い換え需要によって成り立っているのではないか。
そして、そのメカニズムは、
他人から「幸福のかたち」を押しつけられて、
それに乗じてしまう心理にあるのではなかろうか。
例えば塾の問題にしても、いろいろ理由を付けているが、塾→高学歴→幸福 という他人に押しつけられた図式があるから、そんなに裕福でないのに、無理して子供を塾に通わせる。
自分自身の勤め人の経験から省みれば、高学歴な人が会社に入ってきても、仕事
において有能とはかぎらないということも痛切に感じた。
他人に取って変われない人材というのは、
その人がいることで、仕事の流れがいい方に変わったり、
雰囲気や環境がいい方に変わったりするような人だと思う。
そうした力は、学校の教師に問題を与えられ、
それを解いたり記憶する学習だけからは得られない。
どちらかと言えば、自分の置かれている状況を読んだり、
環境のなかに課題を見つけだす能力の方が重要になる。
親が子供のために交通整理をしてあげることに躍起になると、
学力はあっても仕事という生き物に対応できる人間が育つとはかぎらない。
それよりも、迷いの多い状況のなかに子供を放り出すことによって、
子供は自ら課題を見つけだし、
それを解いていく力を自然に身につけてゆくのではないかと思う。
そして、どんなに時代が変わろうとも、
子供が将来「幸福」になるために最も重要になってくるのは、
「逆境を乗りこえる強さ」ではないかとも思う。
「逆境に負けない子供」に育てることさえできれば、
どんな時代になろうとも、
それなりにたくましく生きていけるだろう。
生涯賃金を計算するところからはじめて、
子供の幸福を設定していくことだけはやめた方がいいだろう。
皿の数が多ければ食事の満足度が増すのではなく、
一つの素材からどれだけ味を引き出せるかということや、
それをどれだけ味わい尽くせるかということが、
「幸福格差」を決めていくように私は思う。