「雑念系ブログ」の六尺さんこと heavier-than-air さんのエントリ
『山崎方代の歌』を拝読。
はぎしりしてかなしきを打つ靴を打つときのまもあり広中淳子
山崎方代(Yamazaki houdai)
知る人ぞ知る昭和の放浪歌人。
山頭火、放哉につながる伝説の人
一生妻帯せず、無職、居候、童貞を通した。
金に困れば親しい寺へ行き、住職から金を受ける。住職は「御布施」と言った。短歌結社ともほとんど無縁だった方代は、歌は「作る」ものではなく「詠む」ものでもない、「出る」ものだと言い、酔うほどに酒場の天井に向かって「寂しいから歌が書けるのだ!」と、生まれ故郷の甲州弁でわめきちらした。しかし、その人柄は多くの隣人たちに愛された。
声をあげて泣いてみたいね夕顔の白い白い花が咲いている
大正3年、山梨県東八代郡右左口村の貧農に生まれる。
八人兄弟姉妹の末っ子。
方代は本名。「生き放題、死に放題」の謂とか。
昭和16年、27歳で召集。
翌年、チモール島クーパンの戦闘で砲弾の破片を浴びて右眼失明。
左眼視力0.01となる。
21年5月、病院船で帰還。年末に退院。
「兵隊にとられ、戦争に引っぱっていかれた7年間のあいだ、
私は、心の底から笑ったことは、ただの一度もなかった。
……何のために、人殺しの訓練をして、人を殺さねばならんのか、
まるっきりわからない。
まさに私にとって軍隊生活は地獄の苦しみだ」
(「あじさいの花」)
砲弾の破片のうずくこめかみに土瓶の尻をのせて冷せり
退院後、街頭で靴の修理をする。
23年、歌誌「工人」創刊に参加。
尾形亀之助、高橋新吉、鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩鈔』に出会い心酔する。
この頃より26年まで放浪生活。
汚れたるヴィヨン詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく
24年、この頃方代はいかにも方代らしい恋をする。
「工人」に和歌山から投稿してくる女性同人がいた。
広中淳子である。
捨てられぬかというおびえにて嘘つきし唇人測りし我が頸重し 広中淳子
星遠き深夜の窓に哀願と呪詛をいだきて歩みよりたり
若い娘の切ない恋心を綴った歌。
方代はこの歌の中の淳子に恋をする。
そのうち「工人」の仲間がまことしやかに告げるのだ。
淳子さんは評判の美人で、方代さんの歌の大フアンだって、と。
方代の胸の深くで淳子への想いが膨らむ。
こうしちゃいられない、とまれ会って胸の内を伝えよう、そうしなくっちゃ。
ある日、ふらりと方代は東海道を西下する。
旅費は横浜の歯科医に嫁いだ姉くまの財布からくすねた。
道中、歌仲間を訪ね歩きながら気持を固めよう。
山梨、静岡、名古屋、大阪、京都、奈良、行く先々で暖かいもてなしを受け、
餞別までいただく。
京都では加茂川の土手の真菰の中にもぐり込んで眠っている。
加茂川のまこもがくれに眼をさまし今ん日さんにお辞儀一つ
こうしてようやく意中の人にまみえることになる。
淳子さんは19か20歳、結核で自宅療養している。
「はじめて会った淳子さんは、無造作に髪をたばね、
布団の上に座っていた。
結核ということは聞いていたが、そうやつれてはおらず、
白いうなじと黒いつぶらな瞳の清らかな娘である。
あまりの美しさに茫然として、
あいさつもできない私を見て淳子さんは吹き出した」
(「恋の使徒」)
このとき思わず口をついてでた。
「おしたい申しております」
すると美しい彼女は目を見張った。
「方代さん、おかしいわ。
だって、わたしと方代さんとお会いしたのは今日が初めてよ」
帰京した方代は姉の家に入り、歯科技工の見習いをする。
旅は終わったが、恋は終わっていない。
方代は叶わぬ想いを手紙に託す。
たとえば、ヴィヨンの詩で有名なエバイヤアルとエロイーズとの間に交わされた
「愛と修道の手紙」を写して、こんなふうに
「太陽一つ 月一つ ましてあなたに捧げる愛は一つ
風が吹いている 花が咲いている 雲が飛んでいる あなたのために
するどき歌を作る子は 小さな木槌をふりあげて 金の歯型を調べている
あなたのために」
なんとも切なすぎる。
そして上に掲げた歌もそうだろう。
たのまれて靴の修理をする間も心にその面影があるとは。
しかし詮ないか。
いくら恋しても彼女の心を掴まえられない。
「病が癒えて、嫁いだことを六年のあとに知った。
やがて、子供の出来たこともつたわってきた。
ハガキにはすでに畑淳子と名前が変っていた」
地上より消えゆくときも人間は暗き秘密を一つ持つべし
30年、41歳で第一歌集『方代』を自費出版。
歌壇の反応はまったくなかったが、
これをきっかけに
吉野秀雄(写真)を知り師事する。
吉野は彼の身を按じた。
そして今わの際、自分の妻子に、
山崎方代を頼んで死んでゆく。
40年、姉死去。
天涯孤独の身となり、アパートの留守番、
農作業の手伝いをして口を糊する。
47年、鶴岡八幡宮前にある鎌倉飯店の店主が、
鎌倉市手広の自宅に六畳一間の家を建て、
方代を迎える。
名付けて「方代艸庵」。
これから死ぬまで方代はこの艸庵にひとり住まうのである。
49年、歌集『右左口』を刊行。
これによりようやくその歌が知られるようになる。
こんなにも湯飲茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
55年、第三歌集『こおろぎ』を刊行。
こんな歌がある。
どうしても忘れられない。
死んでも。
嗚呼、広中淳子……。
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
60年、死去。享年71歳。
きっとその魂はそこで憩っているだろう。
いやいまもまだ恋の道を踏み迷っていたりするか。
ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村
この世に私有しているものなどなにひとつないという自由。
作り続けた歌にウラミ節はいっさいない。
口語短歌で分かりやすく、
ちょっとトボケた味がある。
読んでいると、ホッとする。
ニヤリと笑う。
そしてしみじみ人生を振り返りたくなる。