すべての女は痩せすぎである
姫野 カオルコ / 集英社
ISBN : 408747710X
スコア選択:★★★★
この著者の本は初めて読んだ。面白かった。
こちらの気分にピタリと着地する表現が随所にあって、それが気持ちいい。
たとえばこんな表現。
「燃えるゴミと燃えないゴミを徹底的に区分けして出さずにはおれない市松模様のような性分は、ときとして失礼になるのだ。しぼり染めのようなファジーな感覚を体得したいものではある」
ふーむ、とうなってしまうような表現である。
これまでここに書かれているようなことが気分としてはありながら、
ピッタリくる言葉を持たなかった私は、
しめしめ、これからはこの言い方が使えるわ、と大いに満足した。
余談だが、友人の娘が小学校の頃、
レストランではっきりとクレームをつけた母親を称して、
「ママはハキハキした性格だから」と私に言った。
きつい、こわい、では剣がある。
そこで子どもなりに考えて「ハキハキ」と表現したのだが、
私はこの言い方が気に入って、
何かというと「ママはハキハキした性格だからね」と利用させてもらったものだ。
さて、この本の中には、美人だ、痩せている、ハンサムだ(これって死語?)、
太っている、京美人・・・・など、
大抵の人が何となくそう思っていながら、
じゃあその基準は何? と問われると、
やっぱり「何となく」としか答えられないファジーな基準が取り上げられている。
これらの言葉から思い浮かべるイメージというものはあるが、
一体何を基準にして美人だったり、痩せていたりするのだろうか、
と考えるとはて? と思うものが次々に登場する。
冒頭に登場する京美人。
この言葉からイメージするのは、色が白くて和服を着ている、
そして、××どすえ~、と喋る女性。
だが、姫野さんはこんな京都出身・京都育ちの女性に
ついぞ会ったことがないと書いている。
しかも、
「杉本彩のような洋服を着て、由美かおるのようにモダンバレエでくのいちをして、大信田礼子のようにプレイガールにならんとあかへんがな、ほれ」
とつっこみまで入れている(3人とも京都出身である)。
そう言えば、京都生まれ、京都育ちの友人は、
京都出身者でないにもかかわらず、着物姿で、いかにも京都人どす、
というような顔をしてマスコミに登場する人を見ると「けっ」と怒り、
「私の目の黒いうちはあの人を京都人やなんて認めへん」と怒っている。
その度に、まあまあ、となだめる私である。
この本があんまり面白かったのでついつい余談が多くなってしまったが、
いちばん気に入ったのは、「彼の声」の章。
彼とは吉行淳之介である。
これは高校生の頃、吉行淳之介と電話で話していたという話なのである。
書かれていることはとっても面白い。
吉行淳之介の声を聞いたことがあるような気持ちにもなる。
その昔、田村町の四川飯店や帝国ホテルでお見掛けしたことはあった。
色男のフェロモンがただよっておられました。