太宰治の直筆のはがき
作家太宰治が戦後間もなく、
五所川原市の親類の家に送った直筆のはがき二通が四日までに、親類の家で見つかった。
二通は、故郷での疎開生活時に世話になったことへの礼状と、五所川原大火の際の近火見舞い。太宰を長年研究する同市の木下巽教育長は「太宰は多くの書簡を書いておりそれだけで一冊の本になるが、未発見のものはほとんどないと思っていただけに貴重」と話している。
東奥日報記事より
太宰治は妻子とともに昭和20年7月28日上野を発ち、
空襲によってずたずたになった鉄道網を乗り継ぎ、
31日に故郷の金木に疎開し、8月15日の敗戦を生家で迎える。
そして翌年の11月14日に東京三鷹の家に帰っている。
今回の手紙一通は21年11月18日の消印だそうで、
太宰は東京に帰って間もなく礼状を出したことになる。
もう一通は21年11月23日の五所川原大火の後、
太宰の名で12月7日の消印で火事見舞いのはがきを出している。
敗戦を生家で迎えた太宰は戦争直後をどのように見ていたかのか、
長部日出雄氏の書いた『桜桃とキリスト、もう一つの太宰治伝』に
興味ある文章が載っている。
それは、彼が井伏鱒二に宛てた長い手紙である。
「この頃の雑誌の新型便乗のニガニガしきこと限りなく、・・・私は無頼派(リベルタン)だからこの気風に反抗し保守党に加盟し、まっさきににギロチンにかかってやろうかと思っています。
共産党なんかとは真正面から戦うつもりです。
私は単純な奴です。弱い方に味方するんです。
ジャーナリズムに踊らされて民主主義踊りなどする気はありません」
長部さんは、
「太宰は敗戦直後のジャーナリズムにおいて
賑々しく演じられる新型便乗や民主主義踊りをみて、
戦後の変革は名ばかりで、
右といえば右、左といえば左、
みんな一斉の方向に動く日本人の性質が、
戦前戦中とまったく変わっていないと見抜いていた。
自由思想家本来の精神は反抗精神と語る太宰は、
全員が同一方向に進みたがる日本人の通性とは、
右といわれれば左、左といわれれば右にいきたがる、
生来の反抗性の持ち主であった」
と分析している。
今回の2通のはがきは、
きわめて律儀な太宰の性格が伺われ面白い。
桜桃忌背伸びの季節よみがへり 麗蘭