『俳句』  いわし雲祖国を離れ来し月日

b0048657_15493919.jpg

            いわし雲祖国を離れ来し月日  麗蘭






b0048657_15591490.jpg獅子文六は、若い頃パリに渡ってフランスの近代演劇を勉強し、フランス人女性マリイ・ショウミイと結婚して帰って来た。本名の岩田豊雄で新劇の演出もやり、劇団文学座の創立者の一人でもあった。

ペンネームである獅子文六の由来はつとに知られるところであるが、「獅子」が百獣の王、「文六・ぶんろく」は「文豪・ぶんごー(文五)」より一枚上という、人を食ったものであった。

演劇では食っていけないことを悟った岩田豊雄が、
身すぎ世すぎのつもりで手を染めた小説が、
いつか本業のような形になり、
一種の戯作者として獅子文六は機知と笑いの文学を書き続けて来た。
岩田豊雄の本名で発表した小説は、戦争中の「海軍」だけである。

その間に、フランス人の妻は亡くなり、
二度目の夫人も病死し、
フランス人の妻との間に生まれた一人娘は成人して、
獅子文六はようやく老年を迎える時が来た。

昭和28年、満60歳の年に、
獅子さんは長い文筆生活ではじめての自伝的作品、
「娘と私」を書きはじめた。

この作品の自跋に、次のように記している。

「私は、今まで、フィクション(つくりごとの小説)ばかり、書いてきた。
これは、文学の職業に対する私の考えから、出ていることで、
今後も、それを続けていくだろうが、
この「娘と私」だけは、まったく、例外だった。
この作品で、私は、わが身辺に起きた事実を、そのまま書いた。
つまり、私小説であるが、
それは、私の文学に対する考えが、変わったというよりも、
むしろ、偶然の動機からだった」

偶然の動機とは、
妻シヅ子を喪った感想を書くことをしきりに求められるのを、
一周忌でも過ぎたらと言って断っていた獅子さんが、
約束を果たす気になって、
どうせ書くなら感想文ではなく、
亡妻と自分の歴史を書いてみようと思い立ったということである。

亡妻の物語に「娘と私」と題した理由は、
作品を読めば誰にも納得がいく。
「娘と私」は亡きシヅ子夫人に捧げられている。

大正時代に若くしてフランスに遊び、
フランス女を最初の妻とし、
面白い明るい小説をたくさん書いた獅子文六は、
よほど贅沢で幸福な半生を過ごして来た人であろうと
世間には思われていた。

しかし、「娘と私」を読んで、はじめて、
この小説家に暗く長い苦渋にみちた生活があったことを知って
驚いたのであった。

最初の妻が病を得て、
フランスの田舎へ帰って亡くなったあと、
彼は混血の幼い娘をかかえて、
男手一つで生活と闘わねばならなかった。
娘は、ありとあらゆる病気を背負い込んで来るほど病弱であった。

文学の仕事がやっと芽を吹き出したのを感じても、
娘が枷(かせ)で、
それに没頭することができない。

「私は口惜しかった。
私は、結婚を悔い、子を持ったことを悔い、
髪を毟りたいくらいだった。
父親というものは、子供のために、
すべてを献げる用意を持ってはいなかった。
私が、麻理のために、それだけ犠牲を払っているのは、
ただ、愛情に引っ張られるからで、
本意ではなかった。
事業と妻子と、どっちが大切かということは、
男にとって問題にならない。
それは、別のところから出る愛であるが、
ただ、同様に、深いのである」

親子心中を考えたこともあったという。
虚弱な娘を、ひと夏、房州あたりの海岸へ
連れていってやりたいと思っても、
その金の工面が苦しい。

「娘と私」の、少なくとも前半は、貧と病の物語である。
しかし、この貧窮物語には愚痴っぽいところがない。
感動的ではあるが、ジメジメしていない。
読む者の心に、強く印象づけられるのは、
歯をくいしばって不幸と闘う父親の姿である。

後添いのシヅ子夫人をもらってからも、
状況は必ずしも好転しなかったが、
彼は腰を据えて仕事にかかろうとする。

「荷が軽くなった馬は、
速く走らなければ、申訳がない。
私は、二階の上り口の四畳半を、仕事部屋に定めた。
さア、この部屋で、稼ぎをするんだぞ!
階下では、妻子が、口を開けて、餌を待っているのだ」

これは、まさに父親の姿であり、一匹の牡の姿であろう。

作中の告白によれば、
獅子さんは二度目の夫人を、愛して娶ったのではなかった。
娘の母親として、適当な女だと思って一緒になったので、
一時はすべてが気に入らず、
身体にさわられてもゾッとするような時代があった。
それが、いつ頃からか変わって来た。

「ことに、四国の疎開の頃から以後は、
私にとって、なくてはならぬ女になってしまった。
歴史なんだ。年月なんだ」

と、17年間共に暮らしたお互い夫婦のことを作者は考える。

いずれの結婚生活においても、
素顔の岩田豊雄は、世間並みのよき夫ではなかった。
妻に暴力をふるったこともあり、
妻が鞄にタオルを入れ忘れたからといって、旅先から、
「バカヤロー」
と葉書に大きく書いて出すような人でもあった。

それでいて、底にはやさしくあたたかいものが流れており、
自分と娘と、娘の継母との関係を維持していく上でも、
常に大人の智恵を働かせている。

二度目の妻が娘に対して実母のように振舞うことを、
彼は望まなかった。
「実母の自然」があるように、「継母の自然」もあっていい。
世間体を気にし、継母という名にこだわって、
必要以上に神経をすり減らす必要はないと考えていた。

17年間、よき継母として娘を育ててくれたことに感謝して、
作者はシヅ子と別れる。
彼女の死の前後の描写は見事なものである。

私の記憶に間違いがなければ、
この「娘と私」はNHKの朝の連続テレビ小説
第一回放映作品であったと思う。

(追記)
1961年(昭和36年)に放映されていました。
いちばん最初が、空襲のシーンでした。
当時の私は、4歳から5歳にかけて、というところですが、
このドラマはよく覚えています。
[PR]
by leilan | 2005-09-01 06:14 | 俳句
<< 『俳句』  露草や朝刊デフレ脅威論 『俳句』  饒舌のをんな二人や... >>


バッカスの神さまに愛されたい
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧