『俳句』  焼芋を食べて忘れるほどの用

b0048657_14403622.gif

            焼芋を食べて忘れるほどの用  麗蘭




『わが青春の台湾 わが青春の香港』邱永漢(中央公論社)を読んで、
邱永漢さんの実母が日本人だったことをはじめて知った。

邱さんの母親、堤八重は久留米生まれの日本人。
彼女が邱永漢さんの父親である邱清海と同棲を始めたとき、
40歳前だった邱清海にはすでに妻がいた。
名前を陳燦治という。

たまたま邱清海と陳燦治との間には子供がなかった。
こういう場合は古い妻を離縁して新しい妻を迎えるというのが、
日本的な考え方なのかもしれないが、
台湾人を含めて中国人一般は、そういう風には考えない。

いったん縁のあった女は一生面倒見る、
というのが人間らしいやり方だというのだ。
それはそうかも知れない。

もちろん八重にしてみれば面白くはなかったと思う。
当時の日本の戸籍法と台湾の戸口法の間には、
相互をつなぐ規定がなかった。

日本人戸籍を有する人が植民地の人と夫婦の契りを結んでも、
法律上は夫婦として認められない。

そんなわけで、妻妾同居の暮らしのなかで邱永漢さんは生まれた。
1924年(大正13年)のことである。
彼の上に姉が1人おり、長男として邱永漢さん、
そして妹と弟がそれぞれ4人ずつ続いた。
10人兄弟姉妹である。

両親が戸籍上の夫婦ではないので、
生まれた子供はどちらかの子供として届け出る必要がある。
しかし、これがむつかしい問題をはらんでいる。

父親の籍に入れれば(つまり邱清海と陳燦治の子供として)、
もちろん邱家の相続人とすることができるが、
当時台湾は植民地であるから、
その後は台湾人として教育上も差別をうけるし、
社会に出ても苦労するだろう。

一方、母親の籍に入れれば日本人になるが、
私生児として届け出なければならない。

結局、両親は、姉と邱永漢さんだけを台湾人とし、
8人の妹弟は私生児として日本は久留米の母親の戸籍に入れた。

こうして邱永漢さんは、
同じ屋根の下に実母と法律上の母のふたりの母親がいる、
というちょっとかわった育ち方をされた。

ところが面白いのは、
実母の八重さんより血のつながっていない陳燦治の方が、
邱永漢さんにとってはいわゆる「お母さん」であったこと。

本書で、ちょっと胸がつまるのは、
東大に合格して日本に旅立つ「息子」のために、
何十年も家から出たことのなかった陳燦治が、
纏足のよちよち歩きで基隆港までついて行き、
岸壁で内台航路の船をいつまでも見送っていたというところだ。

東大在学中にこの母は亡くなり、
邱永漢さんは二度と再びこの世で相まみえることはなかった。
生みの母親のときは泣かなかったが、
この育ての親の訃報にはどうしても涙をとめることができなかった、
と書いておられるのが印象に残った。
[PR]
by leilan | 2005-12-19 16:41 | 俳句
<< 『秀句鑑賞』 『秀句鑑賞』 >>


バッカスの神さまに愛されたい
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30