『俳句』  ゴスペルは海へ流れて冬薔薇(ふゆそうび) 

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            ゴスペルは海へ流れて冬薔薇  麗蘭





青木玉さんの『底のない袋』(講談社)に、こんな一節が。


  むかしの人は夜、寝しなに、
  「寝るぞ根太、頼むぞ垂木、梁、柱、なにごと有れば起こせ屋の棟」と、
  家中の要所要所に我が身を守れと言葉をかけて横になる慣わしを持つ人が
  あったそうだ。


1993年7月、北海道の奥尻島を震度6の地震が襲ったとき、
私は、すぐ隣の礼文島の民宿でお風呂に入っていた。

今までに経験したことのない揺れだ。
正直、これはやばいかも、と思った。

しかも、間が悪いことに、全裸だ。

大きな地震というのは、
単純に縦や横に揺れるのではない。

マッチ箱をイメージして、
それぞれの柱の対角線がねじれるように揺れるのだ。
ゴーゴーと不気味な音をたてながら。

あのときほど、
建築物に柱があるということを意識したことはなかった。
昔の人ではないが、頼むぞ柱、なんとか持ちこたえてくれ、と祈った。

今回の耐震強度偽装事件は、
「頼むぞ垂木、梁、柱」というごくふつうの人々の日々の祈りを踏みにじった。

一級建築士の誇りも道義心も捨てた姉歯さんは、
「不本意ながら、やってしまいました」とか、
「自分が弱かったのです」などと、
「醜さ」を「弱さ」でカムフラージュする発言をした。

心が弱いという言い方は、
どこか「人間味」というものを感じさせ、
同情を誘うものがある。

でもそれは、狡い欺瞞だろう。

今日の日本では、
賢く見られる話し方とか行動の仕方とか、
さまざまなマニュアル本が売れいる。

頭が悪いと思われることに対して、
とても神経質になっている人が多い。

その一方で、
心の弱さはどこか善良なイメージがあるために、
そう見られても構わないという傾向がある。

お利口さんに見せるためのマニュアル本は、
他者と摩擦を起こさないテクニックや、
他者によく思われるための表層的なハウツーであり、
帳尻合わせの処世にしかすぎない。

それは、自分が属する現実が不本意なものであっても、
やむを得ないものとして諦めたうえで、
自分にとって一番楽で都合のよい人生を歩めばいいではないかという、
スタンスの上に成り立っている。

そのスタンスのことを、
今日の社会は「頭がいい」などと言うが、
それは単に小賢しいだけで、
小賢しさというのは本当の意味の頭の良さとは、
正反対なのではないかと思う。

なぜなら、
小賢しさというのは、
自分の人生の可能性の幅を最初から狭めてしまうからだ。

自分が潜在的に持っているかも知れない可能性に、
ブレーキをかけてしまうような行為は、
人間として愚かなことだろう。

もちろん、
何かにチャレンジすることによって生じるリスクを回避する、
という意味において「頭がいい」などと言われるのだが、
それは短期的な視点である。

長期的に見れば、
チャレンジから逃避し続けることで、
自分の潜在的な力を損なっていくわけで、
どこかでそのしわ寄せがくる。

姉歯さんにとって、
建設会社の要求に対して、
「ノー」と言うことがチャレンジだった。

それが出来なかったのは、
弱かったからではなく、小賢しかったからだ。

そして、「ノー」と言えないしわ寄せが、
「偽装設計の仕事はすべて姉歯へ」という構図になって、
そこから抜け出せなくなっていった。

世の中に、叩けば埃の出ることはごまんとある。

かつて、祖父のいちばん下の弟は日本橋で繊維を扱っていた。
その大叔父が朝鮮戦争の頃、
商社からの納品督促に音を上げていたそうだ。

それは落下傘の布地だったそうだが、
開いても開かなくても構わん明日までに納めろという注文だった。

大叔父は注文を断った。
しかし、その注文はきっとどこかの問屋が受けたはずで、
飛行機から空中に飛び出したら落下傘が開かず、
日本の納入業者を呪う暇もなく、
朝鮮半島の大地に叩きつけられた米兵が何人かいたに違いない。
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by leilan | 2005-12-21 12:05 | 俳句
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