『俳句』  集まって来てフラフープ四温晴れ

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           集まって来てフラフープ四温晴れ  麗蘭





30年以上も前に書かれたものだろうが、
山口瞳の『男性自身』にこんな一文があった。


  私たちが結婚することになったとき、先輩が、こう言った。

  「夫婦が、夫婦としてレールに乗るようになるには十年かかる。
  隣に寝ている女が俺の女房だと思うようになったのは、十年後だった」

  いまから思うと、本当にその通りである。私もそう思う。

  それ以後の夫婦を支えるものは他者である。外的なるものである。
  夫婦以外の何かが夫婦を支えるようになる。

  共同の敵が夫婦をささえる。
  たとえばそれは病気である。貧困である。戦争である。
  あるいは子供である。親類縁者である。友人たちである。

  夫婦愛というようなものには実態はないと思う。それは幻である。

  げんに、私は、まことに当たりまえの話であるが、
  女房より美しい女、優しい女、すぐれている女に何人も遇ってきた。
  女房の側から言わせても同様だろう。

  それならば、なぜ、夫婦として共同生活を営んでいるのだろうか。

  私の父が病気する。父は我儘者である。
  その父を女房が献身的に看病する。
  子供が病気をする。女房が寝ずに付き添う。

  こういう女房を、どうして私がポイすることができましょうや。

  従って、私は、愛は不毛であるか、とか、
  夫婦間の愛の砂漠について、なんていうテーマは、
  ちゃんちゃらおかしくてならないのである。

  私が夫婦について感ずることは、縁ということだけである。
  そう考えるのが、すなわち二十年のキャリアである。


こうした夫婦の機微に無縁な人生を過ごしてきた。
しかし、頭の中で想像しても、これはなんとなく理解できる。
おそらく、自分の両親を見てきたからであろう。

ところが、女房に死なれた亭主族というものはあっという間に再婚する。
すでに六十であり、七十である。
死なれた当座は嘆くことひとかたでないので、
まさかと思っていると、三回忌もたたないうちに再婚する。

俗に愛妻家といわれる人にこのことがある。
だからあてにならないと、とがめているのではない。

子供たちは去って久しくなる。
ひとりでは何も出来ない生活なのだろうと察するのである。

本心では再婚したくなくても、せざるを得ない人もあろう。
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by leilan | 2005-12-23 18:34 | 俳句
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