2005年 01月 10日 ( 1 )

俳句  冴ゆる夜のペーパーナイフ白みけり
冴ゆる夜のペーパーナイフ白みけり

三度目の成人式に向かひけり (二度目は40歳)

ぷるるんと震へてをりぬ寒卵

寒紅を紙で抑へて枡の酒

歯噛みして張る筝の弦寒稽古


カイルアのナーシングホームにおられる愛子さんが、
体調を崩されているという連絡を先週もらった。
友人が愛子さんの遺言執行人になっているので、
急いで、彼と愛子さんのもとを訪れた。

途中、パリハイウエーを抜けたあたりで、
車が5~6台、数珠繋ぎなって止まっていた。
なにかしら、と思い、外に出てみると、
カルガモの母子が道を横断中であった。

おかあさんの後をちびっ子が9羽、
誰が教えたわけでもなかろうに、
ちゃんと一列になって行進している。

ドライバーたちも笑みをもらして眺めていたが、
最後の一羽が無事横断したとき、
思わずみんなで拍手した。

鳥というものは厄落としになったりするので、
ひょっとして愛子さんは好転するのじゃないかと、
そんな気がして、車に戻った。

愛子さんは、数奇な運命の人である。
彼女は広島市の洋品店のお嬢さんに生まれたが、
あいにくの原爆である。
家族は全員、即死だったという。
爆心地からご実家が近かったらしい。

たまたま、愛子さんは学生動員で、
郊外の農家に田の草とりに行っていて、
いのちが助かったが、
被爆手帳はお持ちである。

井伏鱒二の「黒い雨」にあるように、
被爆した女性は結婚が難しかったそうだ。
そんな彼女を心配したハワイのご親戚が、
愛子さんをホノルルに呼び寄せた。

2週間ね、船に乗って来たんですよ、と仰っておられた。
岡晴夫の「憧れのハワイ航路」が流行っていた頃だったという。

そんな愛子さんを見初めたのが、
日系二世のジェームスさんだった。

ジェームスさんのご両親は広島の塩原から
明治期に移民されたそうである。
さとうきび畑で働き、
爪に火をともすような暮らしの中で、
7人の子供を育て上げ、
モイリリにマーケットを持った成功者であった。

ところが、日本軍がパールハーバーを攻撃し、
大東亜戦争がはじまると、
成功者のおとうさんは強制収容されてしまう。
末っ子のジェームスさんは自ら陸軍に志願し、
アメリカ人としてイタリアを転戦したそうである。
おとうさんは収容所の有刺鉄線の中で、
祖国に向かって弓を弾く倅を、
どんな思いで見つめていたのだろうか。

おかあさんは、
ジム、戦争から帰ってきたら、
いい日本人のお嫁さんをおもらい。
でも、もしいい日本人のお嫁さんが見つからなかったら、
気立てのいいハワイ人の娘さんをお探しなさい。
ハワイの人たちは、あなたが子供のとき、
育ててくれたよい人たちだから。
このことは、おまえが成人したら言うつもりだったけど、
おまえが戦争へ行くと決まって、
いま言っておくことにしました。
もしかすると、もう機会がないかもしれないから。

ジェームスさんの所属した日系人部隊は、
アメリカ戦史に語り継がれる最強部隊だった。
ジェームスさんは負傷して野戦病院に入ったそうだが、
少しよくなれば、また戦線に復帰して闘ったという。

これ、ボクの中にあるヤマトダマシイね、きっと。
と笑いながら、語ってくれたことがあった。

属領だったハワイが州に昇格する要因のひとつに、
彼ら日系人部隊の活躍があったという。

ジェームスさんはイタリア戦の功績が認められ、
政府の奨学金でミネソタ・ロウを卒業、
長い間、ホノルルで弁護士として活躍された。
惜しくも4年前に亡くなられたが、
わたしは、ジェームスさんに大変お世話になった。

愛子さんはベッドに横たわっておられたが、
意外に元気そうで安心した。
向田邦子のエッセイを3冊持参したが、
今日、電話があって、
いい御本をありがとう、とてもいいお話ばかり、
と仰ってくださった。

どうか、元気でいて欲しい。
わたしの、ハワイのおかあさんだから。
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by leilan | 2005-01-10 20:43


バッカスの神さまに愛されたい
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