2005年 09月 05日 ( 2 )

イメージ・バトン
二学期がはじまり、バトン部の活動も復活で~す。
何を隠そうこの私、小学生時代はバトン・トワラーだったのです!
これ本当の話なの。
パレードでバトンをくるくる回す少女だったんです。
「コメットさん」って呼んでね♪

さて、ライターin仙台のtamagoさんより回って来た
「イメージ・バトン」なるものの仕組み。
彼女の選んだ言葉「宇宙」から連想されるイメージを書いて、
次の走者に新たな言葉のバトンを渡すらしいです。

って、tamago女史、「宇宙」は難しいよぅぅぅぅ。
ともにバトンを渡された、しんいちろうさんも悩んでおられるのか、
一向に書かれる気配なし(笑)

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1.受け取ったキーワード 「宇宙」

「宇宙」という言葉からすぐ連想するものは、
「∞/無限大」「2001年宇宙の旅」「易経」の三つです。
その中から「易経」について書いてみようと思うのですが、
私、頭がわるいので、判りやすく書くことが出来ないのです。

「易経」は天と人の学問です。
つまり、天という大宇宙(マクロ・コスモス)と、
人という小宇宙(ミクロ・コスモス)の間に「道」があり、
その道、
つまり天と人のかかわりを説くのが易経なんです。

儒教というと、日本では一般に、
非常に道徳的な思想として考えられていますが、
儒教本来の道徳とは、天、つまり宇宙の動きに目をやり、
そこで起こる様々な現象を人間の在り方に関連づけていく道理で、
それは物事の筋道ということです。
観念的な倫理とは違って非常に論理的な考え方です。

「易経」では、
ある一つの状況に置かれると、
「それならこうするのが一番いい」とか、
「こうするべきだ」といった考え方をします。
それは倫理観に基づいてそう言うのではありません。

人間がある状況に置かれるということは、
宇宙全体の原理の一部なのだから、
人の道もまた天の声に従うべきだと考えるからです。

「易経」は、
陽と陰という対立する属性がその根本にあり、
男と女、天と地、奇数と偶数というように、
すべて対立させる考え方となっています。

私たちが生きていくときに、
どうしてもぶつからざるを得ないのが、
自分と他人との問題です。
これも対立すものなのです。

私たちは他人で構成されている世間に、
自分がどのように対処していけばいいのかという問題に
つねに直面しています。
そして、迷ったときに自分がとるべき道を指示してくれるのが
易というわけです。

いわゆる、サイコロジスト(心理療法家)が対応に苦慮するのが、
自分と他人の区別がつかない、
夢と現実を混同しているといったケースだそうです。
あるいは、自分の考えがそのまま世間に通用すると考えたり、
逆に世間の習慣を押し付けられて身動きが
とれなくなっているような人たちも困るそうです。

こうした人たちには、
易経の根本をなしているような二者対立の概念が
なくなってしまっているのです。

易経の考え方によると、人間の在り方は非常に明解です。
自分と他人の区別が明確になってこそ、
はじめてはっきりした人間の意識が生まれるのです。
過去と未来がはっきり見えてこそ、
時間の流れも見えてきます。
こうした区別がわからないと、
とても無意識的になってしまいます。

その結果、無意識に動かされて衝動にかられた行動をすれば
世間に通用しないし、
逆に世間の習慣に従ってばかりでは自分を殺すことになります。

このあたりの人生の機微を非常に明解にするのが、
易経の智恵ということでしょう。
対立する概念を意識することができてはじめて、
人間が人間らしく存在することができるのです。

そこで、
「人のモノに手を出してはいけない」とか、
「人の領分を侵してはいけない」
と言った決まりもできてくるのです。

 
2.渡すキーワード

運動会」ということでお願いします。


3.渡してくれた人へのメッセージ

tamagoさん、
「おかあさん」になってくださいね♪


4.次にバトンを回す人

この方の運動会はどうだったのでしょうか?
jumpinさん、お引越しが終わったばかりでお忙しいと存じますが、
「運動会」のバトンを受けてくださいませんか。

 
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by leilan | 2005-09-05 16:54 | とらば&とらば

『俳句』  秋袷(あわせ)母のたもとを恋ひにけり

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             秋袷母のたもとを恋ひにけり  麗蘭






村上春樹がサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を新しく翻訳し、
それが日本でベストセラーになった話は友人から聞いていたが、
最近、ようやくそれを読む機会に恵まれた。

私自身は中学生の頃から野崎孝訳に馴染んで来たので、
読み比べると、
かつての野崎訳の方が攻撃的で「反抗の文学」色が濃いと感じた。

村上訳はある種サイキックな文学になっていて、
16歳の主人公、ホールデン・コールフィールドの、
「心の闇」みたいなもんを覗く文学になっている。

しかも、野崎訳は、
「~してやがんだ」とか下町のツッパリ風だったのが、
村上訳は彼が関西出身のせいか神戸か芦屋の高校生みたい。
村上春樹の文体は、
私には、ある意味でつらかった。
主人公の語りは、
「関西の漫才師が真似した東京弁」のようなのだ。
人工的な言葉過ぎやしないか。

主人公は16歳なのに、
親から逃げ回ってNYのホテルに泊まったり、バーに行ったり、
金持ちのぼんぼんの不良だった。
東京だと、私らの時代には麻布高校あたりにこんな不良がいた。

しかも、ホールデンの愛読書は、
アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々」という早熟さ。
デンマーク貴族の女性が、
アフリカでコーヒー農園を経営した日々を回想した、
いわば大人の記録文学で、
ホールデンはその本を読んで、
「優れている」とか、
「著者に電話したい」とか言っているのだからスゴイ!

「ライ麦畑でつかまえて」を抵抗の文学と言っても、
マクロな社会体制への抵抗ではなく、
それはミクロな人間関係への違和感である。

主人公は誰ともうまくいかず、
学校は退学させられ、
いいなと思っていた女の子をすかしたルームメイトにかっさられ、
喧嘩した末に寮を逃げ出す。
要するに、社会化の困難を描く物語で、
ホールデンは最終的に入院し、精神分析も受けている。
これは私の高校時代(1972~4)よりも、
今の日本の方が理解しやすいと思う。

そう捉えると、村上訳の方が、
絶対に解消できない厄介なものを抱え込んだ人物の、
その救われない心情が出ていて、適切かもしれない。

難を言えば、
野崎訳ではもっとも魅力的だった妹のファービーが、
なぜか村上訳ではあまり可愛くない。
生意気で素敵なことを言う妹に、ホールデンが会って、
そのイノセントさに救われるのがハイライトだけれど、
村上訳だと、なんだか幼女誘拐犯一歩手前みたいな雰囲気(笑)
村上春樹には、フィービーに感応するイノセンスが欠けているのか・・・。

1969年、私が中学に入学した年、
丸善の洋書コーナーには、
銀色の装丁の"The catcher in the Rye"が、
どーんと山積みになっていて、
すでに一部ではカルト的な人気になっていた。

その隣には、ヘンリー・ミラーの、
"Tropic of cancer"(北回帰線)が平積みになっていた。

アメリカ文学に興味のある人なら、
必読の二冊だったのだろう。
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by leilan | 2005-09-05 06:30 | 俳句


バッカスの神さまに愛されたい
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