カテゴリ:Leilan's Bar( 13 )

ヨイトマケの唄
            丸山明宏(美輪明宏)と三島由紀夫
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            父ちゃんのためなら エンヤコ~ラ 
            母ちゃんのためなら エンヤコ~ラ 
            もひとつおまけに エンヤコ~ラ


           この部分だけですが、ここで試聴できます。



ヨイトマケとは、建築現場の地ならしをする土方仕事のことである。
昭和30年代までは、あちこちで見られた光景だった。

丸太を三本組み合わせてピラミッド型を作り、
真中に重しをロープで吊り下げ、
「エーンヤ」と引っ張って上にあげて、
「コーラ」で手を離す繰り返しで地ならしをする。

丸山明宏(昭和10年生まれ)の小学校時代、
友人のおかあさんがヨイトマケの仕事をしておられたという。

小学校でその子が、
「ヨイトマケの子供、きたない子供」
といじめられ、はやされて、くやし涙にくれながら、
「母ちゃんに慰めてもらおう、抱いて貰おう」
と泣いて帰った道すがら、
母ちゃんの働くところを見る。

男たちに混じり、汗まみれ土まみれになって働く母の姿。
「エーンヤ」、「コーラ」と、唄いながら作業する姿。

「男にまじって綱を引き、
天にむかって声あげて、
力の限りにうたってた、
母ちゃんの働くとこを見た」
のであった。

その「母ちゃんの姿を見たときに、
泣いた涙も忘れはて、
帰っていったよ、学校へ、
勉強すると云いながら」

・・・歳月は流れ、
「何年たった事だろ、高校も出たし、大学も出た。
今じゃ機械の世の中で、おまけに僕はエンジニア、
苦労、苦労で、死んでった、母ちゃん、見てくれ、この姿」

親孝行、したい時には親はなし。

「何度か僕も、グレかけたけど、
やくざな道は、踏まずにすんだ、
どんなきれいな、唄よりも、
どんなきれいな、声よりも、
僕を励まし、慰めた、母ちゃんの唄こそ世界一」

そして
「父ちゃんのためならエンヤコ~ラ 子どものためなら エンヤコラ」
でエンディング。
心に沁みるいい唄だ。

こういう唄を前にしたとき、我々はもはや語る言葉を持たない。
頭をたれ、ただただ涙するだけである。

この唄は長い間、NHKで放送禁止になっていた。
「土方」という言葉が差別用語なのだという。
しかし、私の世代には当たり前で、
土方しなければ生きて行けなかった人が周囲にたくさんいた。

いま、工事現場で女の人が汗水たらして働く姿を
見掛けることはなくなったが、
日本がまだまだ貧しかった時代には、
口に糊するため、子供を育てるために、
土方仕事をするかあちゃんは多勢いた。
何が差別か、その働く姿は立派ではないのか。

はじめて「ヨイトマケの唄」を聴いたときの衝撃は忘れらない。
確か「木島則夫モーニングショー」で丸山明宏が唄ったのだ。
おそらく、小学校3年の頃だったと思う。
その日は、きっと祭日だったのだろう・・・
茶の間に家族全員揃っていたから、たぶんそうだ。

朝ごはんを終えて、祖父と父は仕事の話をしていたと思うし、
私は、まだ小さかった弟と遊んでいたのだと思う。

ところが、この唄がはじまると、みんなテレビに釘付けになってしまった。
台所にいた祖母や母もテレビの前に集まって・・・
そして、みんな涙をぬぐっていた。

大人たちは、戦争をはさんで誰もが苦労していた。
昭和40年、ようやく高度成長のとば口に差し掛かっていたが、
日本の家庭はいずこも決して豊かではなかった。
やれ子供が進学する、病人が出た、葬式を出さねばならぬ、
そんな時にはお金を融通し合ったり、手を貸したりして、
助け合わねば、まだまだやっていけない人が多勢いた時代だった。

おそらく、ある程度以上の年代の方なら、
ヨイトマケの唄は知らぬ人のいない唄であろう。

かつて銀巴里で丸山明宏の仲間だった作家のなかにし礼は、
これまで日本で生まれてきたあらゆる唄は、
この唄の前に吹っ飛んでしまったことだろう、と絶賛する。

それにしても、昔の母はたくましく、そして美しい。

誰しもが若い頃は母親に反抗しただろう。
その刃向かう子に注ぐ母の眼は哀しくも暖かい。
母性愛とは、すべてを許す愛である。
私自身、当時の母の年代を過ぎてみて、
その有り難さを身に沁みて感じるようになった。

作詞作曲丸山明宏、現在の美輪明宏自身のオリジナル曲である。

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クラシック歌手をめざして故郷の長崎から
東京の国立音大付属高校へ進んだが、
実家の破産で中退し、プロ歌手に。
銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」の専属となり、
16歳から40年、ここで歌った。

昭和27年ぐらいかしら、
新宿駅の西口にあった小さな公園で
ホームレスをやってたことがあるの。
駅の地下道にはまだ戦争で焼け出された人たちが住んでた。

高野の裏は屋台が並んでて、紀伊國屋もなくて、
その前の通りは泥道。
歌舞伎町は普通の家だけだった。

でも街頭のスピーカーから流行りの音楽がいつも流れててね。
みんな貧乏だったけどロマンティックな時代でしたよ。

銀座へアルバイトに行き始めた頃は、
都電に乗らず歩いて通ったものよ。
食うや食わずだったから痩せてて、
ウエストなんて48センチくらいしかなくてね。
三島由紀夫さんに、
「きみ、その中に本当に内臓が入ってるんだろうね」
なんて言われましたよ。

銀巴里は芸術家のサロンでした。
三島さんや江戸川乱歩さんも来て下さって、
寺山修司さんはまだ学生。
作家や画家、芸大生、ジャーナリストたちが集まり、
芸術の発信地でした。

芸名を「丸山明宏」と改名したころ、
井原西鶴の「男色大鑑」のお小姓をヒントに「服装革命」と称して、
女もののレースやサテンをまとった。
紫ずくめの姿で歩き、「銀座におばけがでる」と有名に。
昭和32年、シャンソンの「メケメケ」がヒット。
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その後は一転して、「ヨイトマケの唄」など自作の歌を歌い始めた。

シンガー・ソングライターの走りですよ。
哲学や信条を詩にして曲を作って歌う人は、
フランスのシャンソン歌手にいましたが、日本にはいなかった。

私は被爆もしてますし、
貧しい炭鉱街に歌いに行った経験から、
つらさや悲しみを歌った戦争反対の歌とか従軍慰安婦の唄、
ヨイトマケの唄を作りました。
毛皮も宝石もやめてノーメーキャップでワイシャツ一枚で歌う。

仕事がこなくなって干されました。

でも間違ったことはしてないと思ってました。
昭和40年にテレビで「ヨイトマケの唄」を唄ったら、
ものすごい反響があってカムバックできました。

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「ヨイトマケの唄」が大ヒットしたのは赤坂にいた時でね。
貧乏するのはもうイヤだから方位を見てもらったら、新宿がいいと。
それで西口の今の都庁の向かいにあるマンションに住んだのよ。
その場所を選んだのは、
私が西口でルンペンやってたあたりを見下ろせたからなの。
復讐心みたいなものね。
「ヨイトマケの唄」がヒットして、
やっとマトモだって言われるようになった。

「母ちゃん、見てくれ、この姿」
母ちゃんという言葉の響きが良い。


♪ヨイトマケの唄

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by leilan | 2005-06-20 09:10 | Leilan's Bar

「愛のほげほげ」 卯の花腐しの章

にっけいしんぶん新聞「今日の愛ルケ」は箱根不倫旅行中。

菊治と冬香のそれのみがだらだら続くのには、
食傷気味になってきた。

もそっと、引き延ばして書いた方が、
読者はそそられるんじゃなかろうか?

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  「愛のほげほげ」 卯の花腐しの章


黒板に書かれた席題の句がなかなか出来ず、菊治は焦っていた。
それは菊治だけではなかったようで、句会の参加者の多くは、
外へ吟行に行ったらしく、会場にいるのは、
菊治と、横に座っている冬香だけになっていた。

ふと冬香が言った。

「ね~、菊治さん、誰もいないわ」
「え? あぁ、そうだね」
「キスしてぇ」
「え? ここで? いいの?」
「早くぅ、みんなが戻ってくるわ」

キス。かなり長いキス。
唇を離すと唾液と香水の匂いが混じりあった。

「、、、冬香、、したい」
「ダメ、ここじゃ、、、夜まで我慢して、、、でも、、、触るだけなら」
「触ってもいいの?」
「いいわ」

「今夜は二次会は行かないで、君の家へ」
「いいわ、う、、、、、、」
「ほらもう、、、、」

階段から足音。

「あ、誰か帰ってきた、じゃ、今夜ね、あ、菊治さん、
拭いてね舐めてね」
「わかった」
「そ、そこも.......いい、井伊直弼......」(六尺氏追加項目でありんす~)


このエントリは24時間後に消えます。
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by leilan | 2005-06-12 22:20 | Leilan's Bar

エルサレム空襲警報下のストラディバリウス
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911の数日後、世界のナンバーワン・バイオリ二スト、
『アイザック・スターン(Isaac Stern)』がニューヨークで亡くなられた。
享年81歳だった。

1920年にユダヤ人の子としてロシアに生まれ、
生後まもなくアメリカに移住。
8歳からバイオリンを始めたアイザック・スターンという稀有の天才を語るとき、
忘れてならないのは1991年2月23日に起こった、
エルサレム空襲警報下での演奏会だ。

当日午後6時50分アイザック・スターンが、
ズービン・メータ指揮によるイスラエル・フィルをバックに、
モーツァルトのバイオリン協奏曲第三番の第二楽章を演奏している時のこと。

突然、不気味なサイレンが鳴り響き、
ステージの上に係員が駆け上り、
「みなさん、ガスマスクを着けてください」
と叫んだのだった。

スターン、メータ、イスラエル・フィルの面々が一斉に楽屋裏に去り、
エルサレム劇場を埋めた聴衆は、
あたふたと用意されたガスマスクをかぶった。

アメリカのブッシュ元大統領が、
イラクのフセイン大統領に突きつけた最後通牒、
クウエート撤退期限が、
あと10分という23日午後7時だったのだ。

タイミングがタイミングだけに、
スカッドミサイルに慣れっこになっていたエルサレム市民もさすがに慌てた。

ところが、そこに、
アイザック・スターンがガスマスクも着けずに、ひとりで舞台に現われ、
いきなりバッハのパルティータを演奏し始めたのだった。

空襲警報のサイレンも止み、
しーんとした劇場の隅々に、鮮やかなストラディバリウスの音色が響きわたる。
ニューヨークからわざわざ戦時下のイスラエルへ、
慰問にやってきたスターンに、
イスラエルの人々がこのときほど感謝したことはなかったであろう。

ヤッシャ・ハイフェッツ、アルトゥール・ルービンシュタイン・・・・・
ユダヤ人が誇りとする音楽家は枚挙にいとまがない。
世界中の超一流音楽家の90パーセント以上がユダヤ人である。

スターンはルービンシュタインとともに、
第二次大戦後、ナチスドイツへの告発姿勢を変えずに、
ドイツでは絶対に演奏しない数少ない演奏家のひとりでもあった。

有名なこの話を、日本のインターネットに残しておきたいと思い書きました。
検索してみたら、残念ながらどこにも載っていないようです。

ここでは国際政治のことはひとまず置いて、
アイザック・スターンの
エルサレム空襲警報下での演奏を顕彰したいと思います。

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by leilan | 2005-05-26 16:00 | Leilan's Bar

エロチズムを追い続けたパリ野郎 / SergeGainsbourg

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<老婆心ながら、↓は Denger Zone となっております。よいこのみなさんがいる場所ではクリックなさらないでくださいませ。女の喘ぎ声が飛び出します!>

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『悪は善より魅力』を地で生きた男
セルジュゲンズブールのロリコン魂が
妖精ジェーンバーキンとの邂逅を得て
一挙に炸裂したこの曲。
ジェーンバーキンは
彼の、夢見るシャンソン人形だった。
                                         ♪ジュテームモワノンプリュ・・・

しかし、この曲もともとは、
ブリジッド・バルドーに捧げたもの・・。
セルジュゲンズブールの人生とは?





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1928年4月2日、リュシアン・ギンズブルクこと、セルジュゲンズブールは、ロシア出身のロシア系ユダヤ人の父ジョゼフと母オリアのもとに双子の弟としてパリで生まれる。

やがて戦争が始まり、ナチスドイツがパリを占拠すると、ダビデの星をつけながら幼いセルジュはパリを逃げ回った。この原体験が後に彼の作風に大きな影響を及ぼすこととなる。彼の強烈なニヒリズムやシオニズム、絶望的なまでの客観性、それと裏返しの生への歓喜と快楽主義。後に語られるユダヤを差別した言葉「ナチロック」や「イエロースター」は、そのトラウマへの言及なしには語れない。

b0048657_7235936.jpgやがて、セルジュはモンマルトルの絵画アカデミーで、エリザベットルビツキーと出会い、結婚。生活のためにピアニスト兼ギタリストとしてナイトクラブを廻りはじめ、本格的にミュージシャン稼業へと入っていく。しかし、この結婚は57年に破綻。

当時、実存主義者で才人・ヴィアンのライブを観た彼は大きなショックを受ける。デビューしたものの全く認められなかったセルジュを、ヴィアンは陰日なたなく擁護した。

ようやくセルジュにも幸運の女神が微笑みかける。彼の作曲した「夢見るシャンソン人形」がイエイエ時代とマッチしたのか、ユーロ音楽祭で優勝。たちまち世界的な大ヒットとなる。彼のもとには仕事が殺到し、60年代はセルジュにとって一つの黄金期となった。

b0048657_7122935.gif私生活では二度目の結婚を果たすが、仕事が忙しくなればなるほど家庭内はうまくいかず離婚。その次にあらわれた女は、ブリジッド・バルドーだった。しかし、既婚のBBにとってはほんの浮気で、色男セルジュ・ゲンズブールはあっさりと捨てられる。

失恋の果てに待っていたのが、ゲランブラ監督「スローガン」の主演だった。しかし、相手役が交代したこと、ピンチヒッターの女優が全くフランス語を話せない娘だったことに腹を立て撮影はうまくいかない。

b0048657_7135176.jpgそこで監督が魔法をかけると、翌朝二人は仲良く手をつないで撮影現場にあらわれた。こうして、イギリス出身のジェーンバーキン&セルジュゲンズブールのカップルが誕生する。すぐに、娘シャルロットゲンズブールが生まれ、セルジュはジェーンバーキンの魅力を引き出そうと映画「ジュテーム・・・モワノンプリュ」を撮る。ジェーンバーキンは、エルメス・バーキンのモデルとしても有名だった。

b0048657_726052.jpg80年に入ると、セルジュはレゲエ盤・フランス国家「ラ・マルセイエーズ」を作ってしまう。これがフランス極右の怒りを買い、本人はただの遊びのつもりが、コンサート会場に退役軍人たちが押しかけるという騒動に発展した。ミュージシャンたちはステージから逃げ、セルジュは一人でアカペラ「ラ・マルセイエーズ」を歌いきった。

その無軌道な挑発ぶりが若者に人気を呼び、セルジュは再び脚光を浴びる。しかしこの年、掌中の妖精・ジェーンバーキンが彼のもとを巣立っていく。自我に目覚めたロリータのひとり立ちであった。

セルジュゲンズブールのロリコン趣味はつとに知られるところで、自分の娘を主演にロリコン映画を撮ってしまうほどであった。

b0048657_727465.jpg失意のどん底に喘ぐセルジュは、21歳のモデル・バンブーと出逢う。彼女はナチス将校の一族出身で、これもまたセルジュ一流の挑発的行為でもあったのだろう。バンブーとの間には、息子ルシアンゲンズブールを儲ける。

84年、TV出演中に500フラン札を燃やしたり、ホイットニーヒューストンにFuckしたいだの言ってみたり・・・それでもフランス国民はセルジュを愛し続ける。85年には、柄にもなく「芸術文化勲章」まで貰ってしまった。

b0048657_727418.jpgしかし、その頃から体調が悪化しはじめる。紫煙をくゆらすことも緩慢な自殺・・・なんて最後まで煙草を離さず、91年3月2日、自然死に近い心臓発作で永眠。

彼の葬式には、何千人もの若者、カトリーヌドヌーブをはじめ交流のあったパリの女たち、フランスの大臣・・・そして、最後まで愛してやまなかったジェーンバーキンが参列した。モンパルナスの墓には、今も若者たちの姿が絶えない。

セルジュゲンズブール。悪魔の仮面を被ったパリ野郎。挑発もまた彼の遊びの一環に過ぎなかった。20世紀フランスの一つの象徴として、後世に語り継がれる男であろう。ジュテーム・・・モワノンプリュ.........


*映画「ジュテームモワノンプリュ」の詳細はこちら

*セルジュゲンズブールの裸足で靴・・はこちらに詳しい。

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by leilan | 2005-05-09 05:30 | Leilan's Bar

『Leilan's Bar』 ♪Moon Glow ~ Picnic ~ Kim Novak

b0048657_23493827.jpgキム・ノヴァクは私のあこがれだった。

おとなになったら、キム・ノヴァクのような女になりたいと夢見たものだったが、80年代の私は、まるで「めまい」のキム・ノヴァクのように髪を結い、原型のスーツ、7センチのハイヒール、ケリースタイルのバックと、流行とは関係なくたった一人で50年代を楽しんでいた。

キム・ノヴァクと言えば、ムーン・グロウのリズムに乗って踊る「ピクニック」の情熱。全篇ノーブラでむせ返るような女の色香を発散した「めまい」の官能美。金髪フェチのヒッチコックがいかにも好きなタイプである。

女であることを最大限に生かしたそのミステリアスな個性は、徹底したダイエットによって生み出されたという。

カンザス州のちいさな町でいちばんきれいな女の子というのが、名作「ピクニック」のキム・ノヴァクだった。そんな若い女性なのに、ひたむきなセクシーさがあって、とりわけ、湖畔のダンス。
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ウィリアム・ホールデンとキム・ノヴァク。じっと見つめあう二人の間にある距離。もどかしくも離れ過ぎていて、それはなんとも不安な距離。好きなのに言葉でうまく伝えられない若さゆえの不器用さ。何かが起こりそうなのに、無言のインターヴァルに観る者は一瞬息をひそめる。

そこに流れるムーン・グロウ♪

キム・ノヴァクが手のひらを上下に叩いてリズムを取りだす。このシーンがたまらない。ピクニックのどこがいいって、手を叩いて二人が近づいていくシーン。これに尽きる。


今宵あなたと☆
♪ムーン・グロウ / ベニー・グッドマン with ライオネル・ハンプトン




             Mysterious Kim Novak

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Mysterious Violet Kim Novak


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by leilan | 2005-05-01 00:00 | Leilan's Bar

♪Star Dust / Lionel Hampton

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LIONEL HAMPTON became famous in the mid-1930s as a member of the Benny Goodman Quartet. Goodman (clarinet), Hampton (vibes), Teddy Wilson (piano), and Gene Krupa (drums) recorded a number of sides that became instant classics. These recordings continue to influence musicians and entertain fans around the world.



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ライオネル・ハンプトンは、ジャズ界の巨人といわしめたヴィブラフォン奏者で、もはや解説など不要だが、ハンプトンは実に長生きだった。そして、世界各地を、えり好みもしないで廻って、素晴らしいヴァイブを聞かせてくれた。めったにいない名手だったし、どこにいっても手を抜くことなく素晴らしい演奏をした。これがもとでジャズファンになった人も多い。

ハンプトンといえばスターダストだ。この曲はバースで競うようなところがあって、有名なのはエロール・ガーナーとサラ・ヴォーンだが、ハンプトンのスター・ダストにはバースがほとんどないのがユニークだ。かつて、シャボン玉ホリデーのクルージング・テーマでもあった曲だが、私の世代がスター・ダストを語るとき、このシャボン玉に必ず言及する。そして、その気持ちはよくわかる。同世代であの番組をみていなかった人は恐らくいないだろう。


ホーギー・カーマイケルが母校・インディアナ大学のキャンパスで、夜空を眺め失った恋に思いを馳せて作った曲だという。きっと、降るような星であったに違いない。

1947年収録のこのプレイ、名演である。まさしく春の宵にふさわしい。


     ♪Star Dust

     ♪Flying Home


名盤/STAR DUST
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by leilan | 2005-04-29 00:00 | Leilan's Bar

♪Sing Sing Sing / Gene Krupa

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b0048657_7554127.jpgGene Krupa(1909-1973) made drums a solo instrument during the early 1930s- a Slingerland Drum Company a success by inspring thousand of young people to become drummers.
He was the"beginging and the end of all jazz drummers."

Nice Guy!

Gene Krupa had played with the Benny Goodman Band at Hollywood Hotel in 1937.

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Their famous playing "Sing Sing Sing"

That's exciting!
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by leilan | 2005-04-24 00:01 | Leilan's Bar

My Favorite..........
エキサイトが企画するあなたが選ぶいい男に恐る恐る参加.......



                 ☆好きな男の系譜
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                     植木等

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                    成田三樹夫

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                     吉行淳之介

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                     財津一郎

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                       Fin
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by leilan | 2005-04-21 10:26 | Leilan's Bar

Joseph Mallord William Turner


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← Mademoiselle Tamago fell head over
heels in love.


The Fighting Temeraire Tugged to her Last Berth to Be Broken up.
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by leilan | 2005-04-20 05:54 | Leilan's Bar

♪ Coffee Rumba / Moliendo Cafe
南の国の情熱のアロマ・・・コーヒールンバ♪

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 昔 アラブの偉いお坊さんが
 恋を忘れた 哀れな男に
 痺れるような 香りいっぱいの
 琥珀色した 飲物を
 教えてあげました

 やがて 心うきうき
 とても 不思議 そのムード
 たちまち 若い男は
 若い娘に 恋をした
 コンガ マラカス
 ルンバのリズム・・・


昭和36年、西田佐知子が歌って
ヒットした『コーヒールンバ』

幼な心に 変な歌詞だと思ったが、
妙に後を引く。
なんたって、いきなりアラブのお坊さんだもの。
そんでもって、ルンバときた日にゃ・・・
気分はエスニック!

西田佐知子の鼻にかかった声とマッチして、忘れがたい曲である。

彼女のイメージは赤坂で、これは『赤坂の夜は更けゆく』という曲のせいだが、
あの頃は、デビ夫人のコパカバーナに代表されるように、
赤坂はナイトクラブの街だった。
東京の街に、それぞれ顔があった時代である。
彼女の歌は、盛り場の女をテーマにした感じの曲が多いせいもあって、
コーヒールンバはとりわけ異色である。

西田佐知子は美人で、ほっそりと手足の長い、
イヴ・サンローランのオートクチュールが似合いそうな人だった。
その彼女が、関口宏と電撃結婚したときは、
正直、あんな若造と結婚して大丈夫なのと思った。(失礼)

で、話は『コーヒールンバ』である。
この曲、実はベネズエラ産なのだ。
最近、ベネズエラから留学している女性と親しくなって、
原曲の『Moliendo Cafe』(コーヒーを挽きながら)について訊ねてみたら、
ベネズエラの国民的曲として、今も演奏されているそうだ。

そこで、検索してみたら、こんなブログがあって、原曲が聴けます。
あまりにもすばらしいブログで、びっくり島倉千代子です!

b0048657_1973660.jpg  写真は Kim Novak
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by leilan | 2005-04-20 00:01 | Leilan's Bar


バッカスの神さまに愛されたい
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