カテゴリ:とらば&とらば( 13 )

馬の耳


『雑念系ブログ』の六尺さんこと heavier-than-air さんのエントリー
「こどもの日(大安)に子どものことを考えた」を拝読。

これは『美術な目』の crayon-pastel さんのエントリー
「手を使おう」にトラックバックくださったものですが、
皆さんに是非読んでいただきたいのでここに再掲します。


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昔の人はよく「馬の耳に念仏」と言った。
どこかに、手の中の物を、ほうり出すような調子が含まれている。

読書をせよ、日記をつけよと、
先生や親にすすめられた人は数知れぬほどいるが、
これが「馬の耳に念仏」派ばかり。
年長者の意見を聞き流しにしておく。

私なども、まさしくその一人であった。

ある日、小学校の担任の先生が子供たちに言う。
五年生くらいとしておこう。

「いいかみんな、来週の国語の時間に君達の写真を持ってくること。
この頃とったのがあるだろう?
君がシャッターを押したのでもよし、
誰かにとってもらった君の写真ならもっといい。
最近のがなければ、一年前でも、三年前のでも、
君が生まれたときのでもいい、
必ず学校へ持ってくること」

それからのひと騒ぎは略すとして、次週の国語の時間がくる。
先生が写真を持って来たかと、教壇から声をかける。
元気な返事があり、手をさし伸べて振りまわして見せる子もある。

「よォし。
先生がここに厚紙を持って来た。
この厚紙の右上に、このテープを四隅に使って、写真を貼りつける」

先生は黒板にそのやり方を描いてみせる。

「まちがえるなよ、右上だぞ」

国語と工作の時間を取り違えたのではない。
先生は写真の下部に、各自の名前を記させ、
いつ頃写したものか、あるいはいつ頃の季節だったかを記させる。

次いで、誰がとってくれたか、横に並んだ人達は誰々だか、
その写真から思い出したことを、厚紙の余白に書き込ませる。

なっとくするまで、またひと騒ぎして、一瞬教室が静かになる。

「君達はもうすぐ六年生になる。
そうすると修学旅行だ。
みんなカメラを持ってきてパチパチやるだろう。
バラバラにしておくと、いつか失くしてしまうこともある。
帰ってきたら、この方法で写真帖を作って、
なんでもかんでも、旅行中のこと、仲間のこと、
メモのつもりで書き込んでおく。そのための練習だ」

以上は、たとえ話である。
私の子供時代には、こういう優れた教え方をする先生は多勢いて、
私も知らず知らずの間に読むこと、書くことを呑み込み、
大層得をした一人である。

読み書きの時間は、実に楽しかった。
子供の時から、そんないい先生に教わったにしては、
お前の文章は成っていないぞと、言う人があるかも知れない。
残念だが、それは私に才能がとぼしかったからで、
まったく別の話になる。
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by leilan | 2005-05-06 10:56 | とらば&とらば

papas8559 さんのエントリ『言葉の力』について思う

『本と、のこと』の papas8559 さんのエントリ言葉の力。を拝読。

その視点がおもしろい。(papas8559 さんお気に入りのカフェがまた素敵なので紹介したくなったのも事実だ^^)

言葉というものは、モノゴトの伝達のためではなく、対話を通して思いを伝えるために生まれたのではないかと思う。言葉が生まれる以前の人間世界には、それほど伝達すべき事柄がなかったはずで、きっと猿の世界とさほど変わらなかったであろう。

もしそうなら、言語は必要なく、音とか身振りとかで充分にコミュニケーションは可能だ。外国語がわからなくても旅ができるように。異国を旅して、もっと外国語を勉強していればよかったと痛切に感じるのは、「自分の思い」をうまく伝えられないときだろう。

人間はきっと思いを伝えたくて言葉を生み出したのではなかろうか。

人間が人間になったのは、「死」を意識し始めたからだと言われる。「死」を意識することで、「生」を意識し、胸中に様々な思いが渦巻いたであろう。世界の不条理とか、不可解さとか、恐ろしさを、以前よりもいっそう感じ、心のなかの混沌状態に何らかの秩序を見いだすために、人間は言葉を生み出した。言葉が本来一つだったというのは、そういう意味ではないかと思う。

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しかし、いったん生まれ落ちた言葉は、その利便性が特化することとなり、モノゴトの伝達手段として膨張していくわけだが、やがてその言葉そのものに人間世界が飲み込まれてしまう。

始皇帝が、焚書坑儒をしたことについて、その暴君ぶりが強調されたりするが、実際は、今日のような諸子百家状態でわけがわからない言葉があふれかえり、そうした状態を強引に修正しようとしたのではないかと私は想像する。

古代ギリシアにおいて、ソフィスト(詭弁家)全盛の頃も同じ状態だ。ソクラテスは、ソフィスト達を論破して無知の自覚を説いたわけだが、常に対話を通して無知の自覚に至るように論を展開したわけで、やはり言葉の使い方として、非常に理にかなっていたのではなかろうか。

言葉は、書き言葉ではなく話し言葉から始まったわけで、そこにはきっと音楽性が強くあったはずだ。また、村の歴史の伝達にしても、口承で行われていた際には、その音楽性によって身体的に物語が受け継がれたであろう。ホメロスの神話にしても、一人の作者ではなく、数多くの吟遊詩人の口承伝承の賜である。

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by leilan | 2005-05-01 12:47 | とらば&とらば

『手を使おう』 crayon-pastel さんのBlogから

『美術な目』の crayon-pastel さんのエントリ手を使おうを拝読。

中学一年生の美術の授業を通じ、
crayon-pastel さんがまさに感じたことを、
是非皆さんも読んでいただけませんか。

それにしても、
子供が外で遊ばなくなったのは、
いつの頃からか?

70年代はまだ、みんな真っ黒になって遊んでいたが、
90年代になってハッと気がついたときは、
街から子供の姿が消えていた。

昔々、大昔、私は小児喘息をもっていたので、
根がお転婆なわりに、外で遊ぶのは控え目だったが、
でも、木登り、自転車乗り、ゴム跳びなんかやったねぇ。
すべり台なんか、頭からすべってたもんナ~
(こう書くと、いったいどこが控え目なんだか・・と思う)

子供のときは、
外で元気溌剌に遊んでいながら、
けっこう子供同士の人間関係に悩んでいたりする。

そうして、
コミュニケーションの取り方を学んでいくのだ。
同時に、人間関係の耐性も出来上がっていく。

crayon-pastel さんのエントリは是非、
子供のいる方々に読んでいただきたいのですが・・・
うちは庵主が行かず後家のせいか、
花の独身が多いんだな^^

『尼の館』にタイトル変えようか、ねぇ姉妹!

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by leilan | 2005-04-30 17:11 | とらば&とらば


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