<   2005年 01月 ( 31 )   > この月の画像一覧

俳句  白菜の洗ひあげたる白さかな  
白菜の洗ひあげたる白さかな

湯たんぽに湯をそそぐ母午後七時

寒暁や托鉢僧のおさな顔

くつさめや三秒前の白き黙(もだ)


午後三時のそば屋の愉しみを覚えたのは、
勤めを辞めてフリーランスになってからだった。
とは言っても、子供の頃から知ってはいた。

お相撲の時期になると祖父は早々と仕事を終えて、
孫(わたし)の手を引いて、近所のそば屋に行く。
あの頃は町内に同好のじーさん連がいて、
そば屋の旦那もおかみさんも心得たもんで、
「あら、今日は××さん、遅いわねぇ」
なんて調子だった。

ちょうど、大鵬と柏戸が出世魚のごとく
一場所ごとに強くなっていた時代だったが、
わたしは明武谷が好きだった。

「明武谷のお尻、きれいね」
なんて言ったら、そば屋のおかみさんが目を丸くして、
「末恐ろしい!」
と言ったのを今でも覚えている。

街頭録音で有名なNHKの藤倉修一さんと、
数年前、ワイキキの某所で御目文字して、この話をしたら、
「明武谷は廃業した後、キリスト教を信仰して牧師になりましたよ」
と仰ってらした。
これは初耳だった。

国技の相撲取りとキリスト教とは、
今一つ重ならない感じもするが、
明武谷ならさもありなん、だ。
あの人には、土俵のキリストみたいなオーラがあった。

日本橋室町の砂場が好きである。
高い天井、きびきびと働く白い上っ張りのおねえさんたち、
昔は冬場になると、大火鉢の上に、
ビックリするほど大きなヤカンが乗っかっていた。

三時ごろ、ふらっと砂場に入って、
周りを見ていると、
みなさん、お銚子一本に板わさと海苔なんか頼んでいるが、
コップに冷やのまま飲むのが好きなので、
ちょっと恥ずかしいけど、それを頼む。
で、塩だけあればいいけれど、
それではあんまりだから、
その日の気分で玉子焼きとやきとりなんか頼む。
砂場のこの二品はうまい。

昼酒している女人なんか、めったにいるもんではないから、
当然、なんだ、この女視線は感じるが、
とっくの昔に、正統派おんなの道は諦めているので、
なんとも思わない(ことにしている)
いかにも身を持ち崩した女の風情でもないし、
なんか不思議な感じはあるかもしれない。

わが家のオヤジからは、
お前、木槿の花がしぼむ頃には切り上げろよ、
と言われているので、
コップ三杯目くらいに、もりを頼んで、
That all だ。

ご馳走さま、で外に出れば、
午後四時半、夕方の風がここちよい。

銀座八丁目の資生堂の裏あたりに検番があった。
今でもあるのかもしれない。
くすんだ色調のビルの前に、
たいてい二、三台の人力車が置かれていて、
紺の股引、半被姿の車夫たちが門前のコンクリに腰をおろして、
煙草を吸っていたりした。

お座敷に出かけるとき、
新橋の芸者衆は幌をたれた人力車に乗って、
自動車が鈴なりにつらなった町並みを、
うねうねすいすい走って行く。
銀座というのはパリやニューヨークのような風俗と、
明治調抒情画のまじりあった不思議な町である。

この検番の間近に、目指す「金春湯」がある。
お勤めをしていた当時、
左利きのわたしは、時に二日酔いになっていた。
下を向くと地面が大波のように揺れるので、
キッと頭を上げて虚空をにらむ。
この姿勢を家から社までそっと持ち運び、
机の前でキッと構えて昼近くまで静かに待つ。

それから、机の中にいつも用意してある封筒を抱え、
「では、ちょっと出かけてきます」という格好をつくろい、
金春さんに出かけて行く。

封筒の中には、ビニールに包んだタオル、
小さい石鹸箱、コンパクト、口紅、化粧水の小瓶、櫛が入っている。
で、わたしは茶色い封筒を小脇に、
金春さんまで空を見上げながら、
しずしずと歩いて行く。
検番近くの紺色の暖簾をくぐって洗い場に行くと、
上がり湯がこんこんと出ている。

そして、金春の浴槽にのびのびつかるのだ。
まさか手ぬぐいを頭に乗っけて浪花節をうなったりはしないけど、
仕事の時間をつまんでお風呂に入っているという快感は、
学生時代のエスケープにも似て、
なかなかおつなものである。
この「時間のつまみ具合」のさじ加減を上手にするということが、
多忙で時間の振り巾の大きい仕事の中の、
一つの醍醐味のようにわたしは思っていた。

で、近くの「よし田」というそば屋へ行く。
ビールの小瓶を一本飲んで、もりを食べ、
そば湯をたぶたぶというほど残りのつゆに注いで飲む。
すると、ほろっとした気持ちになって、
真昼の銀座通りが不思議に美しいのだ。
すっかり、わたしは幸福になって、
社に帰ったときは、もう二日酔いがなおっている。
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by leilan | 2005-01-11 21:05

俳句  冴ゆる夜のペーパーナイフ白みけり
冴ゆる夜のペーパーナイフ白みけり

三度目の成人式に向かひけり (二度目は40歳)

ぷるるんと震へてをりぬ寒卵

寒紅を紙で抑へて枡の酒

歯噛みして張る筝の弦寒稽古


カイルアのナーシングホームにおられる愛子さんが、
体調を崩されているという連絡を先週もらった。
友人が愛子さんの遺言執行人になっているので、
急いで、彼と愛子さんのもとを訪れた。

途中、パリハイウエーを抜けたあたりで、
車が5~6台、数珠繋ぎなって止まっていた。
なにかしら、と思い、外に出てみると、
カルガモの母子が道を横断中であった。

おかあさんの後をちびっ子が9羽、
誰が教えたわけでもなかろうに、
ちゃんと一列になって行進している。

ドライバーたちも笑みをもらして眺めていたが、
最後の一羽が無事横断したとき、
思わずみんなで拍手した。

鳥というものは厄落としになったりするので、
ひょっとして愛子さんは好転するのじゃないかと、
そんな気がして、車に戻った。

愛子さんは、数奇な運命の人である。
彼女は広島市の洋品店のお嬢さんに生まれたが、
あいにくの原爆である。
家族は全員、即死だったという。
爆心地からご実家が近かったらしい。

たまたま、愛子さんは学生動員で、
郊外の農家に田の草とりに行っていて、
いのちが助かったが、
被爆手帳はお持ちである。

井伏鱒二の「黒い雨」にあるように、
被爆した女性は結婚が難しかったそうだ。
そんな彼女を心配したハワイのご親戚が、
愛子さんをホノルルに呼び寄せた。

2週間ね、船に乗って来たんですよ、と仰っておられた。
岡晴夫の「憧れのハワイ航路」が流行っていた頃だったという。

そんな愛子さんを見初めたのが、
日系二世のジェームスさんだった。

ジェームスさんのご両親は広島の塩原から
明治期に移民されたそうである。
さとうきび畑で働き、
爪に火をともすような暮らしの中で、
7人の子供を育て上げ、
モイリリにマーケットを持った成功者であった。

ところが、日本軍がパールハーバーを攻撃し、
大東亜戦争がはじまると、
成功者のおとうさんは強制収容されてしまう。
末っ子のジェームスさんは自ら陸軍に志願し、
アメリカ人としてイタリアを転戦したそうである。
おとうさんは収容所の有刺鉄線の中で、
祖国に向かって弓を弾く倅を、
どんな思いで見つめていたのだろうか。

おかあさんは、
ジム、戦争から帰ってきたら、
いい日本人のお嫁さんをおもらい。
でも、もしいい日本人のお嫁さんが見つからなかったら、
気立てのいいハワイ人の娘さんをお探しなさい。
ハワイの人たちは、あなたが子供のとき、
育ててくれたよい人たちだから。
このことは、おまえが成人したら言うつもりだったけど、
おまえが戦争へ行くと決まって、
いま言っておくことにしました。
もしかすると、もう機会がないかもしれないから。

ジェームスさんの所属した日系人部隊は、
アメリカ戦史に語り継がれる最強部隊だった。
ジェームスさんは負傷して野戦病院に入ったそうだが、
少しよくなれば、また戦線に復帰して闘ったという。

これ、ボクの中にあるヤマトダマシイね、きっと。
と笑いながら、語ってくれたことがあった。

属領だったハワイが州に昇格する要因のひとつに、
彼ら日系人部隊の活躍があったという。

ジェームスさんはイタリア戦の功績が認められ、
政府の奨学金でミネソタ・ロウを卒業、
長い間、ホノルルで弁護士として活躍された。
惜しくも4年前に亡くなられたが、
わたしは、ジェームスさんに大変お世話になった。

愛子さんはベッドに横たわっておられたが、
意外に元気そうで安心した。
向田邦子のエッセイを3冊持参したが、
今日、電話があって、
いい御本をありがとう、とてもいいお話ばかり、
と仰ってくださった。

どうか、元気でいて欲しい。
わたしの、ハワイのおかあさんだから。
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by leilan | 2005-01-10 20:43

俳句  片足のなき鳩生きて寒の入
片足のなき鳩生きて寒の入

雪折れてなほ雪折れて真夜の庭

ふゆのさくら墓みな祖国向きにけり (移民一世のお墓は日本を向いている)


わたしの身近にいる日本女性の話。
彼女はまだ二十代だが、しっかりしたお嬢さんだ。

彼女は父親の転勤で4歳のときアメリカへ渡る。
そして小学4年までアメリカの公立の小学校で学んで、帰国。
ところが帰国子女の常で、日本の小学校に馴染めずインターへ転校。
同じような境遇の子が多かったので、インターは楽しかったという。

高校1年のとき、また父親がアメリカ赴任になり、
今度はサンフランシスコの私立高校に進学。
これがとても苦しかったそうだ。
彼女いわく、日本のインターというのは無国籍的で、
アメリカの学校とはまたちょっと違うらしい。
驚くことに彼女は、英語で苦労したという。

エッ! あなたが!
と、わたしは正直ビックリした。
だって、インターは英語でしょう、それでも苦労されたの。

インターの授業は英語でも、
通って来る生徒の日常会話は日本語が多いのだそう。
英語の日常会話は出来ても、語彙の量が全然ちがうのだとも。
そして、ディベートでコンビンスする力が弱いんだそうだ。
この聡明な子でも・・・と、しばし絶句した。

華僑の子弟が通うインターに日本の子供を入学させるのって、
あなたならどう思う、と訊いたら、
逆に、どうしてそんなことを親は考えるのかしら、と訊き返された。

ほんとにねぇ。
母語がしっかりしてないと、英語の論文なんか書けないよー。

高校の同級生で、同時通訳の仕事をしている女性がいる。
毎年6月にスイスのジュネーブでILOの総会が開催され、
彼女は毎年、通訳として参加しているが、
ある年、ILOに大変尽力のあったアメリカ人が亡くなり、
総会に先立って、追悼のスピーチが行われたという。
こういう通訳は通常二人一組で行われる。
一人が通訳し、もう一人はそれをチェックするのだが、
彼女の相方の帰国子女の女性がこれを通訳していたとき、

本来なら、
「惜しくもご逝去されまして、さぞや奥さまもお嘆きのことと」
と通訳すべきを、
「惜しくも去勢されまして、さぞや奥さまもお嘆きのことと」
と、言ってしまったそうだ。
あわてて、訂正のメモを渡したそうだが、
日本の代表団だけ下を向いて、クククと笑っていたそう。

帰国子女の同時通訳には、こうしたミスが多いのだという。
日本語に弱く、ことに敬語がダメなんだそうだ。
で、彼女が分析するには、
昔の帰国子女に、こんなミスは少なかったけど、
きっとそれは家族、ひいては日本人がかつては日常的に、
敬語や謙譲語を使っていたからだろうと。

こうした言葉も少しずつ消えていく運命にあるのかもしれない。

しかし、われわれの年代でこうした言葉がきちんと使えないと、
場所によっては、けっこう恥ずかしいのだが。
それに、親が使えないと、子供には伝わらないわけで。

こんなこと、言っても仕方ないのかなー。

少子化は止められるものではないし、
第一、結婚しない男女が増えたというが、
昔は、独りだと生きていくのに不便だった。
それで、なんとなく結婚した人も多かったことだろう。

しかし、帰国してコンビニエンス・ストアを覗くと、
独りのための食事が完備していて、
バナナが1本から買えたりするから、ちょっと驚く。
(幸田文の「流れる」に、確かこんな描写があったっけ

男性で家事が不得手の人でも、
あれだと、なんとか凌げてしまうのかも。
わたしなんか習性で、食事のあと洗い物をしないと、
なんとなく物足りないが、
お弁当箱ポイッも、慣れれば便利なのかもしれない。

しかし、コンビニのお弁当ばかりじゃ、
日本人も、アメリカ人を笑えなくなるだろう。
それに、瀬戸物や漆器でごはんは食べたい。

お料理はやりつければ楽しいですよー。
で、食べてくれる相手がいれば、もっと張り合いがある。

少子化の問題は、
やはり子供が一人だと、
わたしみたいな世話焼きおばさんは、
この世から、やがて消えていくということだろう。

わたしは、ほんと余計なことを次々する女で、
病気の人なんか見ると、放っておけなくて手を出してしまう。
日本人の中には、そんな、構うこと無いわよ、なんて言う人もいるが、
そんなこと言いなさんな、人情じゃないか、なんて啖呵きるわね。
ひとりで病気になるのは辛いものですもの。

このおせっかいは、わが家に流れる血でもあるが、
子供のときに弟の世話を焼いたせいもある。
弟が生まれなくて、一人っ子だったら、
こうはなっていない。

やっぱり世の中、すこーし人情は必要じゃないのかしら。
古いのかな。
個人主義のアメリカ人だって、
実は、近隣でみんな助け合っている。
うちのコンドでは、
パイを焼いたからって、お裾分けが届いたりもする。
パイ焼き名人のおじいちゃんがいるのだ。

新聞の宅配を頼んでいたおばあちゃんがいらして、
新聞はドアの前に置いていくのだが、これが二日たまったとき、
すぐお向かいの男性が心配して、
マネージャーと一緒に部屋に入ったら、
おばあちゃんはキッチンで転んで、一日半も立ち上がれずにいたという。
脱水症状を起していたので、ペットボトルのお水をたっぷり飲ませ、
それから救急車で運んだそうだ。
最近は、首から小さな携帯電話をいつもぶら下げておられる。

この辺の距離の取り方が、アメリカ人は上手だと思う。

また、アメリカにいると、よく日本のことについて質問を受けるのだ。

大仏の耳には何故孔があいているのか、
なんて質問してくるアメリカ人もいる。
日本人が仏教のことを知っているのは当然と思うのだろう。

ハワイ大学の社会人セミナーで、
俳句や芭蕉について勉強している人たちもいる。
われわれ日本人ならば、

  古池や蛙飛び込む水の音

と聞けば、ああ静かだなぁ・・・と思うが、
この静謐がアメリカ人にどこまで理解できているのかな、とも思う。
芭蕉はけっこう人気があって、質問を受けるものの一つである。

わたしが、多少ビクビクしながら参加するものに、
ホノルル美術館の会員パーティがある。
満月の夜に、中庭で胡弓を聴きながらカクテルなんか頂くのだが、
日本人はいつも2~3人しか参加していないので、
これが、おっかない!
この会には、日本の仏教美術に興味のあるアメリカ人が多いのだ。

日本人が宗教に関する知識がなさすぎるのは確かなことで、
これは海外に出ると、意外と問題になる。
ことに、宗教を問われて、無宗教だ、なんて答えると、
国によっては、コミュニストと間違えられることもあるから困る。

この会に、インド人の財閥で、古唐津なんかに興味のある女性がいて、
彼女から骨董関係の鋭い質問が飛んでくるので、
なるべく離れた場所にいるようにしているのだが(情けない、わたし)
でも、内心、彼女は古唐津が解っているのかな、
という疑念がないわけでもない。
あの良さは外国人に理解しがたいものの一つではなかろうか。

でも、ビクビクしながらでも出席するのは、
彼らがどんな美術に興味を示すかに関心があるせいもある。

たとえば、日本の竹細工をコレクションしたアメリカ人男性がいて、
それを展示して、みんなで彼の話を聞いたりするのだが、
こういうときの彼らを観察しているとすごく面白い。
細工の細かさなんかに注目するのは、やっぱり日本人だけである。

このパーティは美術愛好会なので、かなり特殊なのだが、
普通に暮らしていても、
歴史のことなどは聞かれる機会が多い。

で、答えられないとやっぱり恥ずかしいです。

そんなときは、日の丸背負っている気分なんですよね。
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by leilan | 2005-01-09 23:26

俳句  畳みたるセーターの肘ふくらみて

畳みたるセーターの肘ふくらみて

逢瀬にも似て墓詣で冬霞

道問はれ母の敬語や冬ぬくし

ばうばうとラガー等の湯気ノーサイド

雪しまき写楽貌往くニューヨーク


在日華僑が通うインターにわが子を入れたい母親の話に、
みなさんがご意見をお寄せくださった。
どのご意見も、いちいち納得のいくものばかりで、
なるほど、と頷きながら読ませていただいた。

親というものは、わが子にさまざまな夢を託すものだろうし、
その託した夢通りにいかないもどかしさによって、
諦めるということも知り、親もまたそこで一つ学ぶのかもしれない。
何事によらず、人生には諦めねばないぬことが多い。

考えてみれば、
鳶が鷹を産むということは、まずないのではなかろうか。
うちの親はたぶん子供にそんな多くを期待していなかったと思う。
殊にわたしは小児喘息がひどかったので、
丈夫に育ってくれればそれでいい、という親の思いが伝わって来た。
そんな子供時代を送った。

ただ、女の子ということで、
母と祖母は家事と芸事の躾けには熱心だった。
わたしの子供時代は昭和30~40年代ということになるが、
学校では男女平等ということが、
殊のほか強調されはじめた時代であったにも関わらず、
わが家ではそんな風潮とは一切関係なく、
生活人としての自立みたいなものに家庭教育の主眼が置かれていた。

小学校に入学した年に弟が生まれたので、
子守はわたしの大事な仕事で、オムツを替えたり、
そのオムツを洗ったりしたこともある。
離乳食の経過もつぶさに観察して、かつ手伝っていたので、
わたし自身、子育ての経験がなくても、
どういう献立にするか、とか、けっこう詳しい。
弟が成長すると、プリンやホットケーキみたいな
おやつをよく作ってあげたものだ。
その弟にひらがなを教えたり、九九を教えたり、
ま、家庭教師という役目も果たしていた。
こうして弟は育ったので、現在も兄弟仲は極めて良好だ。

朝の仕事というのがあった。
わたしの担当は玄関の掃除と、祖父と父の靴磨きであった。
これが終わると、朝ごはんであった。

昭和30年代は、わが家のような町家にもお手伝いさんがいた。
ちょうど電化製品が普及し始めた時代ではあったが、
家事はまだまだ手動にたよる部分が大きかったし、
高度成長への夜明け前でもあったので、
昭和40年代になるとナショナルや東芝の工場にお勤めする少女たちが、
この時代は、学校を終えるとお手伝いさんとして働くことが多かった。
家事を手伝う傍ら、洋裁学校へ通ったり、生け花なんかも習って、
嫁ぎ先には、祖父母が奔走し、箪笥や着物を持たせて嫁がせる。
わたしは幼稚園のとき、お手伝いさんが嫁がれるというので、
哀しくて、おいおい泣いた記憶がある。

お手伝いさんがいるから子供は家事から放免されそうなものだが、
わが家ではそんなことはなかった。
たとえば、お彼岸の頃になれば、女はみんな台所に入って、
おはぎ(ぼた餅)をせっせと作る。
祖母が、半殺しにね、なんて言うのだ。
半殺しなんて物騒な言葉だが、
もち米を全部つぶさないから、半殺しなのである。
こんな言葉を知っているのも、わたしが最後の世代かもしれない。

洗濯は小学校5年になってから、
自分のものは自分で洗う、ということになった。
溜めると面倒なので、お風呂に入るとき下着やソックスは洗ってしまう。
こうすると、後のものは日曜日に簡単に出来る。

こうしたわが家の教育に感謝するのは、
大人になってからであったが、
今、それを、どれだけ有難いと思うか。

ところが、わたしの世代でも、
勉強だけしていればいいという母親もいた。
Kちゃんのおかあさんは元祖教育ママで、
KちゃんのおねえさんのMさんは優等生だった。
小学校も越境させて、通わせるという徹底ぶりで、
Mさんは越境した小学校でもトップだったという。
そして、中学から水道橋の桜蔭に進んだ。

桜蔭という学校は東京の小学校の一番が集まる学校なので、
さすがのMさんも、最初のテストが中位以下だったという。
Mさんにはそれがショックだった。
家に帰ると荒れたそうである。
そのとばっちりが妹のKちゃんにダイレクトに来る。
だから、Kちゃんは絶対に桜蔭なんか行かないと決め、
区立中学から都立高校へと進んだ。
それでも名門、青山高校だから立派なもんだ。

このMさんは、なかなか立ち上がれず、
大学も埼玉大学という、ま、国立二期だから、
桜蔭にしては・・・というニュアンスは同世代なら判ってくれると思う。
そして、母親の目がおねえちゃんにばかり行っていた次女のKちゃんは、
その分、野育ちというか、真っ黒になって遊んでばかりいた。
これが東大に合格するのだから、人生はわからない。

この姉妹の母親は府立第一高女から女子医大に学んだそうだ。
ところが大正12年生まれなので、女子医大は戦争末期に閉鎖される。
あいにく、ご実家が空襲で焼かれたり、ご尊父が亡くなられたりで、
戦後、復学はかなわなかったそうである。
それで、代用教員となられるのだが、結婚相手がいない。
当時、トラック一台の娘(何故トラックなのか不思議)に男一人、
なんて比喩された世代の女性だった。
Kちゃんのおとうさんは明治生まれで、
おかあさんより20歳以上、年上だったという。

このおとうさんとKちゃんのおかあさんは仲が悪かったそうだ。
ほとんど家庭内離婚状態で、
おとうさんは、どこにいっているのか家で食事することはなかったという。
本来なら、夫に向かうべきエネルギーを、
Kちゃんのおかあさんは長女のMさんに注いでいたのだと、
後に、Kちゃんは分析していた。
また、戦争で果たしえなかった学業への思いを、
Mさんに託していたのだろうとも。

Mさんは後にエリートと結婚し、おかあさんは満足したというが、
Kちゃんに言わせると、おねえちゃんは家事能力がない、と辛辣だ。
Mさんの夫がベルギーに赴任し、おねえさんもご一緒されたことがあった。
それで、Kちゃんが会いに行くことになったら、
おねえさんから持って来て欲しいもののリストが送られて来たのだが、
そこに、麺つゆをたくさん、とあって、それをKちゃんが怒るのだ。
麺つゆなんて、だしと醤油とみりんがあれば作れるじゃないか、と。

そして、Kちゃんの怒りはMさんの子育てにも及ぶ。
自分が母親にされて苦しんだことから、姉は何も学んでいない。
自分の息子に同じことをして、とうとう息子をダメにしてしまった、と。

わたしはMさんをよく存じ上げているが、
わたしが先だって会った母親たちと、どこか似ているところがある。
そして、それはMさんとKちゃんのおかあさんにも共通している。
たぶん、わが子にエリートコースを歩ませたいというオーラが強い。
どうも、それが人生の最終目標なのだ。
そして、みんな、自分の夫にはあまり関心がない。

こういう母親を持った子供は、はたして幸せなのだろうか。
母親のエゴを押し付けられて、つらくはないだろうか。
勉強なんて、本人がその気になれば、どんどん進むし、
その気にならなければ、周りでいくらワイワイ騒いでもどうしようもない。
それは、Kちゃんを見ていればよく判る。

彼女は高校時代、フランスにかぶれて、
いつかソルボンヌに学びたい、と思ったんだそうだ。
そのためには先ず、東大の仏文に進んで、
次に、ソルボンヌというコースを考えたのだという。
それから、彼女の猛勉強が始まった。
彼女の希望が叶えられたのは30代に入ってからだが、
教職に就きながら、結婚もして、子供も二人産んだ。
息子が二人いるが、これが面白い子供たちだ。
旦那はもっと面白い。
三年に一度くらい、家族でハワイに遊びに来るが、
わたしは、この家族が来るのが待ち遠しくて、
お出でよメールを、いつも送ってしまう。

で、夫婦だけは新婚気分でホテルに泊まってもらい、
息子二人はうちに泊める。
うちにはベッドが一つだけしかないが、
これが寝心地のいいダブルベッドで、ここに誰が寝るか、
ベッド争奪花札決戦! 
を三人でやる。
優勝者はダブルベッド、2位がソファ、3位は床にせんべい布団。
これが、盛り上がるのだ。
いつも、わたしが、せんべい布団に寝るはめになるのだが。

子供は親のミニチュアではないと思う。
プラモデルではない。
人類共有の遺産を受け継いで往く旅人のようなものではなかろうか。
たまたま、各々のもとに授けられたにすぎない。
親は、その子がひとり立ちするまでの養育を負う存在で、
そこから楽しみを貰い、苦労から己れも人生を学んでいく。
わが子とは、そういう存在のような気がする。

この続きはまた。
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by leilan | 2005-01-08 21:58

俳句  薺打つ母うたひけり数へ唄

薺打つ母うたひけり数へ唄

タンドリーチキン焦げてる七日かな

静けさは流るるばかり寒紅梅


豆乳をよく飲む。
あんな不味いもの、とよく言われるが、
ちょっと手を加えると濃厚なロイヤルミルクティみたいで、
まったりとしたコクがある。

ミルクパンで豆乳をあっためて、表面に浮いた膜を取り、
蜂蜜と生姜のしぼり汁を混ぜるとミルキーでおいしい。

同じ要領で、豆乳にココアと蜂蜜もけっこういける。

手製の生姜湯もよく飲む一品。
ミルクパンに生姜の薄切りを15分ほど煮立たせ、
蜂蜜を入れて飲む。
気分で、そこにレモンを絞ったりもする。
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by leilan | 2005-01-07 21:41

俳句  肌さらし君等五日の無国籍

肌さらし君等五日の無国籍

縫初や胸元匂ふディオリッシモ

双六のまた戻りをり日本橋

淡々と噛むおちよぼ口切山椒


小学生のお子さんを持つ日本の母親たちと、
少しだけ話す機会があった。

みなさん、正月休みを利用して、
子供さんをホノルルの英語学校に短期間通わせ、
ご自分たちも英語学校に通っておられるそうだ。

旦那さんはどうされてますの?
と訊ねたら、
夫は実家に戻ってご両親とお正月を迎えておられるそう。

少し不思議な感じがした。

とは申せ、よそさまの家庭に口出しする気は毛頭なし。

この母親たちにはどこか共通点があって、
目から鼻へ抜けるような賢さみたいなものを強く感じた。
わたしが逆立ちしても敵いそうにない女人たち。

その中のお一人が、
いま幼稚園に通っておられる息子さんを、
在日華僑の子弟が通うインターに入れたいと言うので、
なんでまた、そんなことを、と訊いたら、
これからは中国語が出来れば食いっぱぐれないし、
華僑のインターは英語教育も熱心だから、
とのたまった。

いや~
凄いですね!

それで、つい、余計な口を挟んでしまった。

日本人として生きるのなら、
母語をしっかり鍛錬しなくてどーするの?
海外に出れば、
日本史を知らないとけっこう恥をかく場面がありますよ。

なんて、言わなくてもいいことを・・・。
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by leilan | 2005-01-06 16:57

俳句  けふからはジェリーに戻り嫁が君

けふからはジェリーに戻り嫁が君  (嫁が君・正月三が日の鼠の呼び名)

初夢を思ひ出せずにゐたりけり

アヴィニョンの娘に似たり福笑ひ

お酒にも飽きて紅茶の四日かな   (lie)

恵方道ブーゲンビリア燃ゆるごと


尾崎紅葉の名作(なのかしら)「金色夜又」を
まともに読んだことがあるだろうか。

貫一もかなりのネチネチ男だが、
どうしてお宮だって、はがゆいことおびただしい女だ。

「宮さん、あのダイヤモンドをはめていたやつはどうだい」
「わたしはイヤだわ」
「殿様然たるなりをしていいにちがいないさ」
「わたしはイヤよ」
・・・・・しばらくして、

「ああ寒い」
「あらイヤ。どうしたの」
「寒くてたまらんからその中に一緒に入れ給え」
「どの中へ」
「ショールの中へ」
「おかしい。イヤだわ」

といった調子で、「イヤ」の連発である。

しかし、こうして読み返すと、
お宮は柳のようにしなしなしているようで、これが絶対折れない、
したたかな女の一面を感じるのは、わたしだけか。

そして、お宮をネチネチ責める貫一は、
一見サディストのようでいて、
お宮のイヤ攻撃に高ぶっていく、実はマゾヒストなのだろう。

なーんて、いったい何を書いておるのか。

大金持ちの男をたぶらかして、
モノにする女性のことを英語で、
Gold Digger(金鉱を掘り当てた人)
なんて言う。

孫のような若い女をたぶらかす爺連は、
Cradle Robber(ゆりかご盗っ人)

英語にも面白い表現がわんさかある。
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by leilan | 2005-01-05 14:49

俳句  豆腐一丁買初め月日動き出す

豆腐一丁買初め月日動き出す

初釜や地天泰の軸掛けて

ライスカレー食べたくなりし三日かな

八つ口の奥の白さや初手前


ここ数年、少子高齢化が日本で問題にされているが、
どこか、おかしい。

豊かになったからこその少子化ではないか。
みんな一年経てば、ひとつ年を取る。
それが元気であれば、こんな結構なことはない。

ようやく人口密度の高さが解消に向かう方向が見えてきたら、
今度は人口が減少するから問題だという。

日本の官僚にかかると、
何がどうなっても幸せはなく、問題となる。
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by leilan | 2005-01-04 14:47

俳句  初雀来てをりパンの屑欲しく

初雀来てをりパンの屑欲しく

二日はやジムで汗してアメリカ人

ブッシュありゃ猿廻しだと思ふべし

真新しキャミソールかな着衣始  (着衣始・きそはじめ)

二人して福茶飲みし日思ひけり


人間、明日のことは判らない、とつくづく思う。

二十代の後半、わたしにも婚約者という人がいた。
わたしより十二歳年長の人だったが、
気持ちのさっぱりした男だった。
あのまま結婚していれば、けっこう仲のいい夫婦になれたと思う。
当時、子の産めぬことを気にしていたわたしに、
「子供が欲しくなったらアダプトしたらいいよ」
とさりげなく言ってくれるような男だった。

思えば、不思議な出会いだった。
朝の通勤電車で痴漢に遭うことがよくあった。
とくに、御茶ノ水で乗り換える中央線はひどかった。
あるとき、わたしの後ろに立っていた男が、
自分の膝をわたしの膝の間から滑り込ませて来た。
イヤでイヤでたまらないのだが、
ギュウギュウで逃げ場がない。

そのとき、わたしの前に立っていた人が痴漢に気付いて、
わたしの身体をギュッとドアの方に押し出してくれた。
ありがたかった。

その人もわたしも東京駅で下車したので、
わたしは後を追いかけて、お礼を述べた。

その人は丸の内側に、わたしは反対の八重洲口に別れた。

その日の仕事を終えて、東京駅1番ホームにいくと、
なんと、朝、痴漢から守ってくださった人がいる。
相手もわたしに気付いて、
「やあ、いま、お帰りですか」
と、気さくに声をかけてくれた。

彼は、これから、登山の準備に借りてある場所まで行くという。
今度カラコルムに昇るんですよ、
あ、よかったら、一緒にいきませんか、
むさくるしい山男が一杯ひっかけながら、準備してるんですが、
面白いヤツばっかりですから、紹介しますよ。

山男なんて、ちっとも興味なかったが、
面白そうだと思った。
同時に、相手の人柄に正直なものを感じていた。
彼はサラリーマンだったが、
山ばっかり登っているから、出世にはほど遠い、と笑っていた。

それから、なんとなく交際が始まって、
二年、交際が続いた。
お互いの家族にも紹介して、
反対者もなくとんとん拍子に進んだ。

彼は週末になると山に行くので、
世間一般の男女のようなスタイルではなかったが、
わたしも自分のやりたいことが一杯詰まった女なので、
お互い、好きなことをしていた。
たまに、昼休みに約束して、
日比谷公園でお弁当食べたりもした。
筑前煮なんか喜んで食べる人だった。

彼らが半年もかけて準備した海外遠征に旅立つ日、
わたしは成田まで見送りに行った。
帰って来たら、結納を交わすことになっていたので、
彼は、成田空港のゲートで、大きく手を振って、
「帰ったら、嫁さんになれよー」
と叫んで、
仲間のひとり・晴やんが大声で、
「娘さん、よく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ」
と唄って、一同ドッと大笑いした。
それが、最後となってしまった。

娘さん よく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ
山で吹かれりゃよーぉ 若後家さんだよ

本当に、明日のことは判らないと思う。

その後、わたしにも幾つか恋もあったが、
帰国すると多摩霊園にお墓参りに行く。
そこに彼のお骨はないのだが、
よくしてくださったご両親のお骨が入っている。

一度でいいから、エベレストの傍まで行ってみたい、
と思うようになるまで足掛け10年かかった。

いまは落ち着いて、こうしてブログに書けるまでになった。
時は最高の薬だと、つくづく思う。
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by leilan | 2005-01-03 11:51

俳句  独りてふ気ままな稼業寝正月

独りてふ気ままな稼業寝正月

初湯して2005年を始めけり

一つ老ひ雑煮の餅の一つ減り

若水のシャワー乳房を叩きけり

碧眼に御慶を申しエレベータ

あらたまの未明サイレン往きにけり

ふぞろひの雑煮黒椀いつくしむ

読初めやインクの匂ふタイムズ紙

ワイキキを横に降る雨初景色

じじじじと年賀ファックス届きをり


たましいの部分では、陰暦で生きているので、
お正月というものに特別の感慨はない。
さりとて、独りの正月でも雑煮やおせちの準備はする。
なんとなく習い性になっているのだろう。

インターネットで日本の新聞を読んでいたら、
奈良の女の子を殺害した犯人が検挙された由。
その名が小林薫とか。

それで、ふと思い出したのが小林薫が出ていた
「バカヤロー! 私、怒ってます」
という映画だった。

この映画は面白かった。
四つの短編で構成されたオムニバスで、
監督俳優はそれぞれ別だけど、
脚本は四つとも森田芳光というのが珍しい。

四つの短編のラストに、
いずれも「バカヤロー!」が出てくるというので、
さあ出るぞ、ぼつぼつ出そうになってきたぞ、
とか、わたしは思うタチで、
しかも、この話はストレートに大声で「バカヤロー!」
ではないだろうなと予想したりして、
あんがい低い声で言うかもしれないなと予想したりして、
じっさいに低い声で「バカヤロー!」と言いはじめると、
ああやっぱりね、と思ってしまう。
まったく、わたしはしょうもない観客だ。

小林薫は、
第四話の「英語がなんだ!」に出て来る。
これは海外勤務になった小林薫が、
必死に英会話を覚える話で、
日本人の多くが身につまされる英語コンプレックスを
小林薫がおどおど演じて、可笑しかった。

この映画は、第三話がいい。
「運転する身になれ!」というタクシードライバーの話。
この運転手が大地康雄で、
はじめてのお客で乗り込むのがイッセー尾形。
とくれば、もう、どうなるんだろうとワクワクしてくる。
で、イッセー尾形が乗り込むなり、
アヤセにやってくれという。
これがじつは口からの出まかせなんだが、
このアヤセというのがいい。
何がいいかと言われると答えられないが、
日常の限りない倦怠といいますか、
アヤセねえ。
この行き先がオギクボというのであれば、
別にどうということもない。
アヤセである。
いやそれ以上何も言えないのだが。
ま、そういう理屈で言えない可笑しさこそ、
わたしがいちばん観たいものなのである。

この映画で気になったのは、
第二話に出てくる痴漢の手だ。
女が電車の中で痴漢に遭うのだが、
女の尻に触る痴漢の手が全然いやらしくなかった。
触るというより無機物のボールでも掴むみたいに、
ギュッと掴む。
ああいうもんではない。
もっと糊でもついているみたいに、
ネチネチとやるのだ。
体験から言えば、
痴漢の手は常に真剣だ。

痴漢は判りやすいからまだいい。
何年か前に帰国したとき、
JR飯田橋で下車して西口の長いコンコースを歩いていたら、
20代後半という感じの男性が追いかけてきた。
で、一緒にお茶を飲んでくれませんか、と言う。
これが、紺色のカシミアのコートに身を包んだ、
幼稚園から学習院というタイプで、
顔はどうも真剣なのだ。
どうしてわたしのような40代のおばさんに、
と不可解だった。
やんわりと断って西口の改札を出たら、
まだ追っかけてくる。
お願いですと哀願する。
わたしが、その男性の亡き母に生き写しだと言うので、
ちょっとガッカリしたが、
いえ、あなたのような人が理想なんです、
と食い下がる。
これには正直困って、
ごめんなさい、わたしには夫がいます、
と大嘘こいてしまったが、
マザコンのハンターなのか?

わたしは若い頃から、
じじい殺しの異名を持つ女で、
これが悲しくなるくらいヨボヨボの爺様ばかりから声がかかる。
先だっても、ダイエー豆腐売り場で、
推定年齢86歳とおぼしき杖をついたおじいさんが、
アナタ日本人デスカ、と訊くので、
イエス、アイム ジャパニーズ、と答えたら、
いきなり、
アイ ラブ ユー、ときたもんだ。
やさしく介護してくれそうな感じがするのだろうか。

ハンターはせいぜい65歳までにして欲しい。

それにしても、津波の死者が15万人を超えたという。
死というものに麻痺していくような感覚が恐ろしい。

今日のニューヨーク・タイムズもこの記事で固められている。
ちっともめでたくない New Year となってしまった。

  荒ぶりし地球重たき去年今年
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by leilan | 2005-01-02 17:05


バッカスの神さまに愛されたい
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