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ヨイトマケの唄
            丸山明宏(美輪明宏)と三島由紀夫
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            父ちゃんのためなら エンヤコ~ラ 
            母ちゃんのためなら エンヤコ~ラ 
            もひとつおまけに エンヤコ~ラ


           この部分だけですが、ここで試聴できます。



ヨイトマケとは、建築現場の地ならしをする土方仕事のことである。
昭和30年代までは、あちこちで見られた光景だった。

丸太を三本組み合わせてピラミッド型を作り、
真中に重しをロープで吊り下げ、
「エーンヤ」と引っ張って上にあげて、
「コーラ」で手を離す繰り返しで地ならしをする。

丸山明宏(昭和10年生まれ)の小学校時代、
友人のおかあさんがヨイトマケの仕事をしておられたという。

小学校でその子が、
「ヨイトマケの子供、きたない子供」
といじめられ、はやされて、くやし涙にくれながら、
「母ちゃんに慰めてもらおう、抱いて貰おう」
と泣いて帰った道すがら、
母ちゃんの働くところを見る。

男たちに混じり、汗まみれ土まみれになって働く母の姿。
「エーンヤ」、「コーラ」と、唄いながら作業する姿。

「男にまじって綱を引き、
天にむかって声あげて、
力の限りにうたってた、
母ちゃんの働くとこを見た」
のであった。

その「母ちゃんの姿を見たときに、
泣いた涙も忘れはて、
帰っていったよ、学校へ、
勉強すると云いながら」

・・・歳月は流れ、
「何年たった事だろ、高校も出たし、大学も出た。
今じゃ機械の世の中で、おまけに僕はエンジニア、
苦労、苦労で、死んでった、母ちゃん、見てくれ、この姿」

親孝行、したい時には親はなし。

「何度か僕も、グレかけたけど、
やくざな道は、踏まずにすんだ、
どんなきれいな、唄よりも、
どんなきれいな、声よりも、
僕を励まし、慰めた、母ちゃんの唄こそ世界一」

そして
「父ちゃんのためならエンヤコ~ラ 子どものためなら エンヤコラ」
でエンディング。
心に沁みるいい唄だ。

こういう唄を前にしたとき、我々はもはや語る言葉を持たない。
頭をたれ、ただただ涙するだけである。

この唄は長い間、NHKで放送禁止になっていた。
「土方」という言葉が差別用語なのだという。
しかし、私の世代には当たり前で、
土方しなければ生きて行けなかった人が周囲にたくさんいた。

いま、工事現場で女の人が汗水たらして働く姿を
見掛けることはなくなったが、
日本がまだまだ貧しかった時代には、
口に糊するため、子供を育てるために、
土方仕事をするかあちゃんは多勢いた。
何が差別か、その働く姿は立派ではないのか。

はじめて「ヨイトマケの唄」を聴いたときの衝撃は忘れらない。
確か「木島則夫モーニングショー」で丸山明宏が唄ったのだ。
おそらく、小学校3年の頃だったと思う。
その日は、きっと祭日だったのだろう・・・
茶の間に家族全員揃っていたから、たぶんそうだ。

朝ごはんを終えて、祖父と父は仕事の話をしていたと思うし、
私は、まだ小さかった弟と遊んでいたのだと思う。

ところが、この唄がはじまると、みんなテレビに釘付けになってしまった。
台所にいた祖母や母もテレビの前に集まって・・・
そして、みんな涙をぬぐっていた。

大人たちは、戦争をはさんで誰もが苦労していた。
昭和40年、ようやく高度成長のとば口に差し掛かっていたが、
日本の家庭はいずこも決して豊かではなかった。
やれ子供が進学する、病人が出た、葬式を出さねばならぬ、
そんな時にはお金を融通し合ったり、手を貸したりして、
助け合わねば、まだまだやっていけない人が多勢いた時代だった。

おそらく、ある程度以上の年代の方なら、
ヨイトマケの唄は知らぬ人のいない唄であろう。

かつて銀巴里で丸山明宏の仲間だった作家のなかにし礼は、
これまで日本で生まれてきたあらゆる唄は、
この唄の前に吹っ飛んでしまったことだろう、と絶賛する。

それにしても、昔の母はたくましく、そして美しい。

誰しもが若い頃は母親に反抗しただろう。
その刃向かう子に注ぐ母の眼は哀しくも暖かい。
母性愛とは、すべてを許す愛である。
私自身、当時の母の年代を過ぎてみて、
その有り難さを身に沁みて感じるようになった。

作詞作曲丸山明宏、現在の美輪明宏自身のオリジナル曲である。

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クラシック歌手をめざして故郷の長崎から
東京の国立音大付属高校へ進んだが、
実家の破産で中退し、プロ歌手に。
銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」の専属となり、
16歳から40年、ここで歌った。

昭和27年ぐらいかしら、
新宿駅の西口にあった小さな公園で
ホームレスをやってたことがあるの。
駅の地下道にはまだ戦争で焼け出された人たちが住んでた。

高野の裏は屋台が並んでて、紀伊國屋もなくて、
その前の通りは泥道。
歌舞伎町は普通の家だけだった。

でも街頭のスピーカーから流行りの音楽がいつも流れててね。
みんな貧乏だったけどロマンティックな時代でしたよ。

銀座へアルバイトに行き始めた頃は、
都電に乗らず歩いて通ったものよ。
食うや食わずだったから痩せてて、
ウエストなんて48センチくらいしかなくてね。
三島由紀夫さんに、
「きみ、その中に本当に内臓が入ってるんだろうね」
なんて言われましたよ。

銀巴里は芸術家のサロンでした。
三島さんや江戸川乱歩さんも来て下さって、
寺山修司さんはまだ学生。
作家や画家、芸大生、ジャーナリストたちが集まり、
芸術の発信地でした。

芸名を「丸山明宏」と改名したころ、
井原西鶴の「男色大鑑」のお小姓をヒントに「服装革命」と称して、
女もののレースやサテンをまとった。
紫ずくめの姿で歩き、「銀座におばけがでる」と有名に。
昭和32年、シャンソンの「メケメケ」がヒット。
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その後は一転して、「ヨイトマケの唄」など自作の歌を歌い始めた。

シンガー・ソングライターの走りですよ。
哲学や信条を詩にして曲を作って歌う人は、
フランスのシャンソン歌手にいましたが、日本にはいなかった。

私は被爆もしてますし、
貧しい炭鉱街に歌いに行った経験から、
つらさや悲しみを歌った戦争反対の歌とか従軍慰安婦の唄、
ヨイトマケの唄を作りました。
毛皮も宝石もやめてノーメーキャップでワイシャツ一枚で歌う。

仕事がこなくなって干されました。

でも間違ったことはしてないと思ってました。
昭和40年にテレビで「ヨイトマケの唄」を唄ったら、
ものすごい反響があってカムバックできました。

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「ヨイトマケの唄」が大ヒットしたのは赤坂にいた時でね。
貧乏するのはもうイヤだから方位を見てもらったら、新宿がいいと。
それで西口の今の都庁の向かいにあるマンションに住んだのよ。
その場所を選んだのは、
私が西口でルンペンやってたあたりを見下ろせたからなの。
復讐心みたいなものね。
「ヨイトマケの唄」がヒットして、
やっとマトモだって言われるようになった。

「母ちゃん、見てくれ、この姿」
母ちゃんという言葉の響きが良い。


♪ヨイトマケの唄

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by leilan | 2005-06-20 09:10 | Leilan's Bar
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バッカスの神さまに愛されたい

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