新涼の古くなりたるをとこかな 麗蘭
なんちゃって。
この句、はじめは、
新涼の古くなりたる畳かな
だったんですけど、
それじゃ、ありきたりなので、
ちょっと、中年のアンニュイで決めてみました。
ブリジッド・バルドー、山猫のような女だ。
漱石の俳句
文豪夏目漱石は終生子規の弟子であると自称していた。俳句のことである。
子規との友情は、漱石の生涯の中で特に重要であったのだろう。漱石が多くの弟子たちをいつも自宅に招き入れていたのも、あるいは子規の真似だったか。
漱石の俳句は文人俳句のように言われるが、とんでもない。一派をなしても十分なほどに立派な俳人だったと思う。そして「草枕」という短編小説は、まさに俳論であり、同時に俳句である。
それほどの俳句への深い造詣を持ちながら、同時にひどく淡白でもあった。
英文学や小説に身を削る思いをしていただろう漱石にとって、
俳句は慈雨のようなものであったのかもしれない。
「日本の衣服が簡便である如く、日本の家屋が簡便である如く、俳句もまた簡便なものである。」
漱石の弁である。
漱石の俳句が好きだ。
漱石流の天衣無縫というか、放胆というか、
発想でびっくりさせられるものが多い。
反して、荷風は、
あれだけ敢然として世捨て人になり無用の人たらんとしているのが、
五七五を意識すると、
とたんに歳時記用にぴたりのようなお手本の句を吐くというのは、
ちょっと奇異でもある。
俳句がとりすましていて、ひたすら寂しい。
荷風の俳句は、花鳥風月を地でいく散文のなかで光る。
まさしくそれは、遁世のさびである。
漱石俳句 二十句
君逝きて浮世に花はなかりけり
一里行けば一里吹くなり稲の風
罌粟の花さやうに散るは慮外なり
菫ほどな小さき人に生れたし
月に行く漱石妻を忘れたり
善か悪か風呂吹を喰つて合点せよ
安々と海鼠の如き子を生めり
筒袖や秋の柩にしたがはず
無人島の天子とならば涼しかろ
時鳥厠半ばに出かねたり
別るるや夢一筋の天の川
秋風や唐紅の咽喉仏
蜻蛉の夢や幾度杭の先
あるほどの菊抛げ入れよ棺の中
腸(はらわた)に春滴るや粥の味
蝶去つてまた蹲踞る小猫かな
湯壷から首だけ出せば野菊哉
連翹の奥や碁を打つ石の音
秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ
秋立つや一巻の書の読み残し