人気ブログランキング | 話題のタグを見る


俳句  春の風邪コップの水を鉢植に
風車そろそろ弥七の出る時分

春の風邪コップの水を鉢植に

春の日のモナリザ浅く微笑みぬ


俳句に 「贈答の俳句、慶弔の俳句」 という、
平素つくっている句とはやや違う趣をもったジャンルがある。

わたしがまだ学生だったころ、
父の友人で俳句をつくっていた方が、
なにかにつけて短冊に句をしたためて、
わが家に届けてくださっていた。

わたしが大学に入学したときにいただいた句が、
しばらくの間、
茶の間の短冊掛けに入っていたことがあった。

まだ俳句に関心がなかったわたしは、父に、
「おじさんがお前のためにつくってくれた句だ」
と説明されてもなかなかピンとこなかったが、
それでもおじさんが自分のことを思っていてくれていることが、
とても嬉しかったことを覚えている。

弔句には<悲しい、さみしい>を入れてはダメ、
慶句に<めでたい、うれしい>はダメだと言う。

そうした感情を森羅万象に託すのが俳句であるから、
もっともなことだと思う。


  地球一万余回転冬日にこにこ  <高浜虚子>

この句には 「播水、八重子結婚三十周年祝句」 という前詞があって、
高浜虚子が、俳人・五十嵐播水へ贈った句として有名である。

365日が30年重なると、10950日になる(笑)
つまり地球が<一万余回転>したことになるわけだ。
夫婦として30年過ごした歳月も、
こんなふうに言うと歳月が具体的に感じられる。

それがただ長いだけではなく、
円満で豊かな日々であったという感じがよく出ている。


  たとふれば独楽のはぢける如くなり  <高浜虚子>

虚子の朋輩にして敵手であった河東碧梧桐との関係を、
<はぢける独楽=こま>にたとえた句である。


  堪ふべしと母は堪へにき京鹿の子  <及川 貞>

「戦死の報到りしときこの花咲いて居き」 の前詞がある。
独白のような句であるが、
わたしには、母である作者が、
半世紀以上も前に戦死した子息へ、
贈った句であるように思われてならない。
贈ったというより手向けた句といったほうがいいかもしれない。

人の一生には、
誕生、入学、卒業、就職、結婚、新築、昇級、還暦のような喜びと、
病気、挫折、失業、死などの悲しみがついて回る。
その折々の相手の心中をおもんばかりつつ、
祝意や弔意の通った句を贈るというのが贈答句である。


  おもかげは水仙に似て七回忌  <麗蘭>

この句は、39歳の若さで逝った友への弔句である。
# by leilan | 2005-02-05 20:54

俳句  たつぷりと髪結ひ上げて今日立春
如月の色とりどりに和菓子店

たつぷりと髪結ひ上げて今日立春

東風吹かばティッシュペーパー歩み寄る


ホノルル・アドバタイザー(日刊紙)に、
<ANNIE'S MAILBOX>という人生相談のコーナーがある。
全米から寄せられた相談の中から、
選りすぐったものが掲載されているのだが、
日本の人生相談とはまた、ひと味違った面白さがあって、
アメリカ人というものをつくづく知らされる。

きょうは、こんな相談が寄せられていて、
朝食を取りながら、しばし考え込んでしまった。


<Son's donor card raises questions of paternity>

Dear Annie: My blood type is AB, and my wife's is B.
I happened to see our adult son's Red Cross doner
card, and it shows that he is type O. The good news
is that we are all regular donors. The bad news is
that he cannot be my son.

A little over 40 years ago, around the time "Wayne"
was conceived my wife and I had a bit of a rough patch,
but that is long behind us now. Since his birth, I always
have considered him my son.

I don't know how to raise this issue with my wife.
I love her more than life itself and do not want to
harm our close relationship. And I also don't want to
hurt "my" son. At the same time, this knowledge is
very troubling to me and may have inheritance
implication, etc.

Is there a way to clear the air and let my wife know I
will love her no matter what? What do I do, and how
do I do it?



40年以上も、自分の息子だと思って育ててきた父親が、
息子の血液型を知り、愕然とする。
それは、自分たち夫婦からは生まれて来ないタイプだった。

妻にこの問題をいかに持ち出すべきか、
愛する妻との関係にヒビが入ってしまうのではないか、
それによって息子を傷つけはしまいか、
などど悶々とし、思い余って相談しているのだ。


そして、回答者のアニーは、
ドナーカードは極めて神聖なものではないし、
それが間違っている可能性もある、としながら、
あなたが奥さんと話し合いたいのなら、
彼女を非難しない方がいいかもしれない。

あるいは、この件について、あなたから直接ではなく、
わたしから奥さんに話すのがよいのかも知れない。
そして、あなたは、この事実を息子が知ったとき、
どのように彼を慰めるのか、考えた方がいい。

問題の核心は、あなたでも奥さんでもなく、
息子にこの真実を如何に伝えるかということ。
このケースは、息子にメディカル・ケアが必要、
と回答している。


この問題への現実的な対応の仕方が、
如何にもアメリカ人だよな、と思うのだ。

この夫の煩悶は痛いほど解るが、
もし、息子がこの夫の子供でなければ、
妻は当然にこの事実を知っているわけで、
彼女はひとり、胸のうちで苦しみぬいて来ただろう。
夫に手を合わせて、生きてきた40年であったに違いない。

この夫が息子に愛情をかけている姿を見て、
シメシメ・・・なんて思うようなタマだったら、
あたたかく幸せな家庭など築けるわけがない。

悩める父よ。
あなたの妻は、長い歳月、その罪を洗い清めてきた。
だから、この秘密をあなたは墓場まで持っておいきなさい。
それが、最良の選択ではないかしら。

とアドバイスするわたしは、
やっぱり、骨の髄まで日本人なんだろうねぇ。
# by leilan | 2005-02-04 20:07

俳句  若宮大路海へとつづく春隣
待春のケトルに香草ひとつかみ

若宮大路海へとつづく春隣

長椅子の端にひとつぶ年の豆


エキサイトのリニューアルが大荒れだったようだが、
ようやく投稿可能となって、めでたしめでたし。

無料で使わせていただいてますので、
それだけでも申し訳ないような気がしていますのに、
ご担当の方々は、きっと寝ずの作業だったに違いなく、
この一両日、本当にお疲れさまでございました。謝謝。

きょうは節分、そして明日は立春となる。
たましいの部分では、
旧暦で生きているわたしにとって、
きょうは一年の変わり目みたいなものである。

立春を年初とする考え方は中国では漢の時代からで、
それ以前の前漢の時代には、
春は冬至からと考えられていた。

それは、一日の日照時間をもとに考えると、
冬至は日照時間のもっとも少ない日で、
昼が一年中でもっとも短く、夜がもっとも長い。
陰気が極まって、これから陽気が萌すという、
陰から陽への一陽来復の日だというわけで、
冬至から春が始まると考えたわけである。

しかし、今度は気温をもとに考えてみると、
季節的にもっとも気温が下がる寒い日は立春であり、
立春からしだいに暖かさが増して春になる。
確かに、冬至から日照は長くなるが、
<冬至冬なか冬はじめ>
といわれるように、
冬至は冬の真中であり、
ここから本格的な冬の季節になる。

時間の春より気温の春をのぞむなら、
もっとも寒い日であろうと、
その後は暖かい陽光が肌に感じられる立春をもって、
春とするのが自然と考えたわけである。

こうして漢の時代に入ると、
一陽来復の日として立春が年初と定められるようになった。

この立春年初は、それから二千年近く続き、
日本でも明治6年の太陽暦改正まで、
立春を年初としていた。

その名残として、
立春を基準に日を数える風習がいまでもあり、
夏が近づいて種蒔きの目安となる<八十八夜>
中稲(なかて)の開花期で台風が多い<二百十日>
また台風襲来の厄日とされた<二百二十日>
などの言葉が残っている。

きょうのワイキキは終日、雨だった。
どうしたわけか、わたしは一日中、
<故郷を離るる歌>を歌っていた(笑)

わたしには、こういうことがよくあって、
先週は<Breeze and I ・そよ風と私>だった。

     故郷を離るる歌

  園の小百合、撫子、垣根の千草
  今日は汝を眺むる終りの日なり
  思えば涙、膝をひたす、さらば故郷
  さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば

この歌はドイツ民謡に日本語の訳詞をつけたものだが、
この詞のはめ込みが何とも妙である。

<ソノノサユリ ナデシコ カキネ>まではいいとして、
次の<ノ チグサ>の<ノ>がおかしいのだ。
楽譜のいちばん高音の部分、
それもブレスしたすぐ後に助詞がくるから変なのだ。
歌う生理に適っていない。
どうして誰もこれをおかしいと言わなかったのだろうか。

けれど、おかしなもので、
長年歌っているうちに、
そこが一種快くなってくるから不思議である。
# by leilan | 2005-02-03 20:58

俳句  開かずの戸開けて真白き息あふる
冬桜かくもしづかにたたずめり

開かずの戸開けて真白き息あふる

浅草にどぜう藪そば春近し


<時間>とは、
非情に時を刻み続け、
万物を等しく駆り立てていくもの、
というイメージをもっていた。

ところが、生物学的に時間を見れば、
それは画一的なものではなく、
ネズミの時間、ゾウの時間、ヒトの時間というふうに、
さまざまな時間があり、
物理的な時間だけで測りつくせないという。

おもしろいと思うのは、
心臓が一回打つのに要する時間は、
身体が大きくなるとともに、
体重の0.25乗に比例して長くなっていくという話。

体重5トンのゾウでは、
心臓が一回打つ時間は2秒だが、
30グラムのネズミなら、
その20分の1の時間しかかからない。

心臓は一生の間に200億回打ち、
ゾウはネズミよりずっと長生きなのだが、
こと心臓は両者とも同じ回数だけ打って死を迎えるのだという。

ゆえに、大きい動物の時間はゆったりと流れ、
それに比べると、小さい動物の流れは速い。
これを<生理的時間>と呼ぶそうだ。

人間だって、時間の速さは微妙に違う。
ハワイの人々は万事のんびりしていて、
仕事の遅さかげんに対しては、
こと日本から来た人々には不評である。

しかし、ハワイ生活がすっかり板につくと、
今度は日本へ行ってそのせわしなさに疲れてしまう。
時間で縛られた都会人の生活は、
はたしてヒトという動物のもつ空間やリズムに、
合っているのだろうか。

ハワイや沖縄は世界有数の長寿の島である。
長寿の秘密が、
このリズムの問題と関係あるのではないか、
などと考えたりしている。

バセドー病の友人がいる。
若い頃、彼女とよく一緒に旅をした。

わたしは、行動を開始する前に、
先ず頭の中で段取りを図るタイプで、
それが出来上がるまでは沈思黙考している。
で、絵図が完成すればGOである。

ところが、彼女はとにかく動く。
たぶん、段取りなんてものは彼女の辞書にはない。
たとえば、ホテルに着いて、
先ず、わたしは着替えをして・・・という感じになるが、
彼女はスーツケースを開いて、
なぜか、洗面所に歯ブラシや化粧品をズラリと並べる。

まとめてドンと運べばいいと思うのだが、
スーツケースと洗面所を何往復もするのだ。
ま、みんな各々のやり方というものがあるから、
彼女のやりたいようにやればいいわけだが、
これがもう面白いくらいパタパタと動き廻る。

で、ルーブルのようなところへ行くと、
わたしは気に入った美術品の前から動かなくなる。
他の物はどうでもいいのだ。
ひとめ惚れした作品をしばらく愛していたい。

ところが、彼女は小気味いいテンポで次々眺め、
あのルーブルを半日で見尽くす。

結局、どういうことになるかと言えば、
わたしは、ルーブルだけに一週間を費やし、
彼女はパリ市内の至るところを見学してまわる。

だからと言って、喧嘩になるわけではない。
お互いの性分はガキの頃から承知している。

その彼女が、バセドー病に倒れたのが32歳のときだった。
それで、わたしは彼女のセカセカした行動に納得がいったし、
前述の<生理的時間>に当てはめれば、
彼女はわたしの数倍の時間を生きていたのだと思う。

田中角栄が亡くなられたとき、
立花隆が話していたことが印象に残っている。

彼の生涯を思うとき、
バセドー病が与えた影響というものを強く感じる、と。
# by leilan | 2005-02-01 20:26

俳句  冬木立中也の帽子往きにけり
かさね着やメンタムリップ重き唇  (唇=くち)

冬木立中也の帽子往きにけり

大寒の赤き仁王の力瘤       (瘤=こぶ)


あれは何年前だったか、
たまには日本で正月を迎えたいと思い、
暮に帰国したことがあった。

で、年始の挨拶に見える親戚の者たちと一杯やりながら、
ちらっちらっと新春恒例の箱根駅伝を眺めていた。

中継所で、自分のチームの走者が来ない選手が、
遠くを見ながら足踏みをし、
身体が冷えぬようにして待っているのだが、
なかなか来ない。

先頭の選手のたすきリレーが行われてから、
ある一定の時間がたって、
審判が無常な判決を下した。

繰上げスタートである。

たすきを受け取らずに、
残った数組の選手は駆け出さなければならないのだ。
彼らは仮のたすきをかけて走り出した。

中継地点で待っているはずの選手にたすきを渡すべく、
必死の形相で駆けてきた選手が、
自分が渡すべき選手がいないのを知って、
泣きながら倒れ込んだ。

それと同時に、
堰を切ったように涙があふれてきたのだ。
わたしはほとんど号泣したのである。

一緒に見ていた叔父は、
俺は孫の運動会で泣いちまうんだ、と話していた。

遠目で見ると、
白い豆粒のような孫がスタートラインに並び、
「ドン!」の合図で駆け出す。
その駆け方からして可憐そのもので、
早くも涙腺はゆるみはじめるのだが、
足がもつれているのに転びもせず、
一生懸命の顔して走ってくると、
もう手放しの号泣であるという。

泣くといえば、
昨日意外なことで泣いた。

C-SPAN というTVニュースが気に入って、
最近はCNNよりもこちらの方をよくチェックしている。

で、イラクの選挙の模様が放映されていて、
ああ、この人たちは命がけで投票しているんだな、
と思った瞬間、嗚咽が込み上げてきたのだ。

ひとり、さめざめと泣いた。
# by leilan | 2005-01-31 17:25


バッカスの神さまに愛されたい

by leilan
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31